滝堺城

たきさかいじょう
  • 名称たきさかいじょう
  • 俗称・別名城山
  • 所在地牧之原市片浜字法京小字城山
  • 様式山城
  • 築城年元亀2年(1571)
  • 関連武将武田信玄 武田勝頼 馬場美濃守氏勝 徳川家康

遠江へ侵攻してきた武田信玄によって築かれた城

この城は滝堺城の新城で、元亀2年(1571)2月、大井川を越えて遠江に侵攻してきた武田信玄は、まず小山城を築き、さらに南下して相良荘境に以前よりあった滝堺古城(勝間田氏の出城)を修築しようとしたが、塁地があまりにも狭小なため、その北方、法京にこの新城を構築した。
縄張りは馬場美濃守氏勝で、駿河先方衆(朝比奈駿河守150騎をはじめ、総勢310騎で編成)に交替で守らせた。
海岸沿いに拠点を構えた武田軍は、浜の手の徳川軍をけん制し、めざす高天神城攻略の一布石とした。
天正元年(1573)4月、信玄逝去。子勝頼は父の遺志を継いで高天神城攻略に全力をあげて戦い、ついに翌2年6月同城を抜いた。その時、滝堺城は武田軍の有力な後方基地であった。
この年から7年後の天正9年(1581)3月には高天神城が徳川軍に攻略されるが、それまで幾度かの小競合いが滝堺城においても繰り返されたことが、『家忠日記』や『三河後風土記』によって知られる。
天正10年(1582)2月、家康は勝頼の滅亡(同年3月)を待たずにこの城を入手した。そして駿遠二州制圧後は廃城となった。
遺構のある山頂台地(標高70m)は現在すべて茶畑となっている。法京から城山坂を登ると左方に急峻な連郭がある。本城(郭)と二の丸間の空堀(幅4m、7m。深さ3~4m)は町指定史跡となっている。この西側が本城で約4,700㎡の規模。ここから駿河湾が一眸の間に収まる。周囲には高さ約1mの土塁が残存する。
堀の東側が二の丸で東西90m、南北70m。三の丸は現状では二の丸と地続きで、その間に幅約10mの低地があって、ここに堀があったと推定される。三の丸の広さは約1,800㎡ほどある。その東端は幅・深さとも5m余の空堀が2カ所あって、さらにその西に約1,200㎡の外郭がある。二の丸、三の丸にも土塁が巡らされており、山頂の四周、とくに南側は断崖絶壁で、土地の人は「ホッカケ」と呼んでいる。
城跡からは五輪塔残欠、礎石、石塊、焼米等が出土している。「ネゴヤ」と呼ばれる所は城の北側、横沢川に面した地籍をいう。
なお、「上ノ原」に数多くあった五輪塔は、現在、散佚がおびただしい。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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