相良館

さがらやかた
  • 名称さがらやかた
  • 俗称・別名平田城、相良氏居館
  • 所在地牧之原市大沢字川向
  • 様式その他

土豪・相良氏の居館

天永3年(1112)初めて遠江国相良荘に居を定めた藤原周頼(為憲流・遠江守維兼を祖とする。その孫)は在地の名を苗字とし、相良氏を称した。以後、8代長頼まで6代82年間の故墟がこの平田城である。
土豪・相良氏は相良荘(領家は西園寺・清水谷。蓮華王院領)の荘官(下司・預所)として命脉を保った。
治承4年(1180)源頼朝旗揚げの時、翌養和元年(1181)7代頼景は浅羽荘司宗信とともに遠江守護安田義定の命に従わず、また下馬の礼をとらなかったため、平家に心を寄せるものとして、その非礼を頼朝に訴えられ、所領を収公された。これが橋本事件で、吾妻鏡に見え、相良三郎すなわち頼景である。
頼景は建久4年(1193)肥後国球磨郡多良木に放たれ、また、同9年(1198)8代長頼も九州下向を命ぜられ、同郡人吉荘を領し、元久2年(1205)には同荘の地頭職に補せられ、長く鎮西の御家人となった。その後、子孫継承し肥後人吉藩2万2千石の江戸大名として明治維新に至っている。
また、一族のうち、長頼の弟頼綱は相良の故地に留まり、相良荘の一部を支配していた。その傍証として平田寺宝塔があり、「沙弥如蓮」はその系譜をひく相良氏某の法名とみられる。
館跡は萩間川下流の東岸、大沢(旧・徳村分)の地内で、俗称中島という所。水田面より約1.5m小高い30m×10m。15m×10mの島状の荒地が故墟の中心部と推定され、古くから「相良遠江守居館趾」と伝承されている。
寛政3年(1791)の平田村古絵図を見ると、この辺りが小高い丘状で、松の樹が画かれており、享保13年(1728)本多氏が対岸に居館を造るときの採土以来、地況は著るしく変っている。
相良平地の中央に占地していたこの島状台地は萩間川に沿った湿田地帯の水脉、自然地形を利用した格好の城地だったことは想像に難くない。
堀跡・土塁など今は認められないが、附近に川田、堀合、クロベイ等の地名が残存している。
建武4年(1337)の平田寺文書に「一町一丈、徳政村内中野在之」とみえ、この地名との関連も注目される。
「古城趾、昔時相良遠江守住す。今耕田となる」と寛政年間(1789~1801)に『遠江国風土記伝』に述べている居館が、すなわちこの平田城跡である。
また、『日本国誌資料叢書-遠江』に「平田城(大江郷平田村)相良遠江守の居城也」とあるは『遠江国風土記伝』の記事を引用し、平田城と命名したのであろうか。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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