相良城

さがらじょう
  • 相良城
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着工後わずか20年で破却された城

  • 名称さがらじょう
  • 俗称・別名田沼城
  • 所在地牧之原市相良字元本丸跡
  • 様式平城
  • 遺構石垣
  • 築城年明和5年(1768)

田沼意次によって築かれた近世城郭

家康の相良御殿が廃れた後、宝永7年(1710)寺社奉行、本多忠晴が入封し初代相良藩主となり、正徳4年(1714)旧御殿地に居館造営を手がけ、後、延享3年(1746)若年寄、板倉勝清が城主格となって入り城地の拡張整備に着工したが、間もなく移封となった。宝暦8年(1758)田沼主殿守意次が相良藩主となり、明和4年(1767)2万石にのぼり、将軍家治から相良築城を許された。近世城郭としての相良城は、この意次によって築かれ、田沼城の別称を残している。
城地の縄張りは潮田、須藤両氏によって行われ、翌5年4月築城に着手した。工事を終始主宰したのは家老、井上伊織であった。城堀の工事に入ると町家は引越しをはじめ、石垣師は江戸から岡田新助が入り、城代として三好四郎兵衛が赴任した。同7年には石垣工事完了。翌8年には大手橋ができ、御番所、居屋敷、御櫓などの建造も進んだ。安永6年(1777)大手門が出来、翌7年中には三重櫓の工事もすみ、同8年1月御本丸御殿棟上式が行われ、翌9年竣工。明和5年築城に着手してから11か年の歳月と、老中、意次の権勢になびいた諸大名の協力によって広大・き然とした新城が完成し、同年4月13日、意次は検分のため相良城に来て10日間滞在している。
しかし、天明4年(1784)子、意次が佐野氏に殺害されてからは、田沼氏は次第に衰え、同6年8月、病いの将軍家治に意次のすすめた医薬の効なく死去すると、老中を罷免され、翌年にかけて所領4万7千石は没収、蟄居を命ぜられて失脚。孫、意明は陸奥で1万石を継いだが、相良城は収公のうえ取り壊しとなった。開城使、岡部美濃守長備の収城の模様は『田沼候開城記』に詳しい。築城着工以来20年目には破却の運命をたどった短命の城であった。
城域は東西500m、南北450m余で約23万㎡ある。もとの相良御殿跡を本丸とし、北東を流れる相良川(今、萩間川)北西の天の川(一名、潮田川)を大外堀として備え、その中に二の丸、三の丸の堀を角型に巡らした平城である。この堀水は海水の干満を直接受けるので、その水位を高く保つため堰堤(洗いさぎ)が築かれている。
城跡の現況は、本丸に町役場(三重櫓跡を含む)。二の丸は相良小学校、中学校敷地。三の丸は相良高等学校、農協のほか民有地である。
現在、残存する遺構は二の丸の土居(松並木16本は町指定史跡)と仙台河岸石垣を残すのみである。なお、銘文のある礎石が百花の稲荷社にあって「安永三甲午年十二月十三日成、奉行、三好四郎兵衛、多賀谷求馬、藤沢権左衛門」と刻まれている。そのほか城の遺品10余点が城下の各所に見られ、近年、本丸跡において井戸が発見された。
城跡の北東に接した相良港が信州街道の起点として繁栄し、町並みの整備と相まって市場町が成立し、東海道に連絡する相良街道(田沼街道)が新設され、商業城下町発展の基盤をつくった。
御長家とか追手という地名が今も使われ、字名として元本丸跡、三ケ月堀、河岸、三ノ丸等があり、新しい地名には元城町がある。町史料館は本丸の中心部にあたる。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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