大鐘屋敷

おおがねやしき
  • 名称おおがねやしき
  • 所在地牧之原市片浜字大磯小字海戸
  • 様式その他
  • 関連武将大金藤八郎貞綱 豊臣秀吉 木下一元 山路将監
  • 文化財指定国重要文化財

古四間取形式の母屋を持つ大鐘氏の屋敷

大鐘氏(もと大金に作る)は、もと越前国に住し、7代大金藤八郎貞綱は、同国北庄を本拠とする柴田勝豊(勝家の養子)の家臣であった。その祖は建徳年間(1370~72)ころの人という。(清浄寺古記録)
天正10年(1582)11月、羽柴秀吉は近江長浜城を攻め、勝豊を降し、大鐘氏らを買収して勝豊を味方に引入れ、翌11年4月賎ケ嶽の戦いでは、貞綱は秀吉側として木下一元、山路将監らとともに堂木山に陣して、勝家軍を敗った。(『姓氏家系大辞典』には「志津嶽闘戦の日、大鐘藤八あり、山路将監とともに大杉山に陣す。」とみえる。なお、将監は戦い半ば前田利家の下に走るという。)これを大金藤八郎の陣という。この年勝豊の病死によって、貞綱は秀吉に転仕した。その後、加藤清正との間に確執があって、家伝によると慶長2年(1597)ごろ当地、大磯村に移り住み芝切となったという。以後、当主まで23代を数え、すでに元禄ごろ(1668~1704)には大庄屋として近郷を支配していた家柄である。ただし、同家に永禄3年(1560)大磯組あての弓の事文書で伝存し、かつ菩提寺である清浄寺に天文2年(1533)の同家墓碑があることから、移住の時期は天文年間以前かとも思われる。
片浜海岸の旧・田沼街道に面した小高い丘に、代々大庄屋であったことの風格を実証できる屋敷構えを持ち、旧状をよく保っている。面積約3,000㎡余の屋敷内に母屋を中心とした長屋門(入母屋造)、納屋、土蔵、離れ等を配し、母屋は18世紀初頭から中期にかけての古四間取形式で、静岡県を代表する最古の間取りであり、母屋以外は19世紀初頭の建造とされている。また。屋敷の石垣は相良城のそれを移し積んだものという。
附近には堀田、下屋敷、稲荷山等の小地名がある。
昭和48年6月2日、主屋及び長屋門が国の重要文化財に指定された。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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