花倉城

はなぐらじょう
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「花蔵の乱」の舞台となった山城

  • 名称はなぐらじょう
  • 俗称・別名葉梨城
  • 所在地藤枝市花倉
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀切
  • 築城年14世紀後半・戦国時代
  • 城主・城将今川氏
  • 関連武将今川義元
  • 文化財指定藤枝市指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

今川氏の駿府移動前に築かれた城郭

藤枝市街地から北へ向かった葉梨(はなし)郷の山間地に築かれた花倉城。一帯は古くから今川氏との縁が深く、今川氏が駿府に移るまでの本拠地と見られています。周辺には今川氏ゆかりの寺院や神社が数多く存在し、城址までの道のりがハイキングコースになっています。

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花倉城の築城年代は明らかにされていませんが、南北朝初期の建武4年(1337)に今川範国が足利尊氏から葉梨地域を与えられた後の、14世紀後半あるいは戦国時代と考えられています。
花倉城の名が史料上に現れるのは、天文5年(1536)に起きた今川氏の家督相続争いに伴う「花蔵の乱」にまつわるものです。異母兄の玄広恵探を滅ぼして、名実ともに家督を相続した今川義元は、戦功のあった岡部親綱に感状を与えていますが、この文書の中に親綱が葉梨城を攻め落としたことが記されています(岡部文書)。また、同日付で親綱に宛てた今川義元判物写にも「当構並びに方上城・葉梨城に於いて別して粉骨抽んじ」と記されています(土佐国蠧簡集残編三)。この乱で親綱が落とした「葉梨城」が花倉城と考えられていますが、正確な地形測量や発掘調査が行われたことがなく、城域も確定していません。
花蔵の乱の後、放棄されたと伝えられている花倉城は、駿河にある今川氏の城郭のなかで、武田氏や徳川氏の手が加えられていない可能性が高く、今川期の城郭として注目されています。

成り立ち

今川範氏が文和2年(1353)に徳山城を攻略してまもなく、駿河南朝として活躍していた安倍城の狩野氏に対抗するため、大津から葉梨郷花倉に本拠地を移し、居館を構え、更にその北方2kmの山頂に詰城として花倉城を築いたともいわれていますが、定かではありません。花倉城が歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代の天文5年(1536)のこと。この年、今川氏輝が若くして病死すると兄弟の玄広恵探(今川良真・遍照光寺住持・花倉御曹子)と栴岳承芳(善徳寺の御曹子・後の義元)の間に家督争い(世にいう花蔵の乱)が起こりました。家督争いの最終局面で岡部親綱をはじめとする義元派の軍勢は花倉に攻め入りました。恵探は花倉城にて戦いましたが敗れました。この争い以後、城は放棄されたと考えられています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

歴代城主

今川氏

現在

花倉川が流れていて南方向に開口している谷(勝谷)の山の神をまつった森の前をすぎて山にかかります。ここのみかん畑を土地の人々は「城おもて」と呼んでいて、このみかん畑の頭上に花倉城がそびえていました。
標高296m、比高250mの山頂に位置し、頂上の雑木林の中に二段の曲輪があります。北の方が本丸で、南の方が二の丸で、この間の空堀は幅5~8m、深さは二の丸側で3m、本丸側では8mもあります。本丸は東西20m、南北50mの平場で、西側北端に高さ1.5mで4m四方の土段があります。二の丸は本丸より5mも低く、周囲に高さ70cmぐらいの土塁の残欠が見られます。
また、この南側にも小さな曲輪が見られます。二の丸の南側の空堀は幅6mで、特に本丸・二の丸間の堀と二の丸南側の堀は、西側斜面下方においてY字状になり谷底へ落ちこんでいます。二の丸から南へ100m程尾根を下った所にもう1条の空堀があります。二の丸から東へ尾根を下ると大手であるが、そこには広い平坦部があり、大手口守備の曲輪跡と考えられます。
城跡から一望できる北方・西方・中ノ合・下之郷にかけての旧葉梨郷には諸寺院、今川氏居館跡、更には今川氏の家臣の屋敷等が多数あったと思われます。特に現在でも新野・矢部・松井・大楊氏などの名が小字として残されています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

花倉城跡概要図(作図:椿原靖弘)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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