駿府館

すんぷかん
  • 名称すんぷかん
  • 俗称・別名府中館、今川館
  • 所在地-
  • 様式その他

今川範政が創築し、氏真までの7代が居館としたとされる今川氏の本拠

今川氏は範国以来駿河国守護職として、駿河府中入府を目ざしたが、駿遠両国の南朝勢力にはばまれて、それを果せず、今川泰範に至って、駿府入府を果したが、応永18年(1411)範政の時はじめて、葉梨荘花倉の地より駿府に居を移し、駿府館を創築、以来氏真に至る7代の居館地となった。もっとも、最近は、初代範国のときから駿府が本拠だったという説も出されている。
この間、氏親の時、駿府館を朝比奈泰以に命じて修築している他は、館に関する目立った記録はない。その後永禄11年(1568)12月武田信玄の駿河侵攻によって、駿府は焼打され、駿府館も落城している。元亀2年(1571)4月、信玄は、武田上野介信龍、同左エ門大夫信光を在番として入城させたが、天正10年3月徳川家康の駿河経略によって、再度駿府は焼土と化し、武田信光・信龍は駿府館を退去して甲州に去っている。(『今川記』、『武徳編年集成』他)
そして、天正13年徳川家康の第1期駿府築城によって駿府館は廃城又は取壊されたと考えられる。
駿府館の規模及び形態も明らかではないが、戦国期に見られる、他地方の大守館と同様土塁及び水堀で囲まれる単郭ないし連郭式の居館であったと想定される。特に駿府館は、要害地形に立地しない平地に築かれるため、その防備上の弱点を補う意味で、周辺街道筋に支城砦を配置している。
それは詰の城として賤機山城があり、西、日本坂道に花沢・持舟城、東海道筋に丸子・小瀬戸城、東、北街道に愛宕山城・瀬名砦、北、川根道口に尾沢渡砦、南、久能口に八幡山城・有東砦などが配されていたと思われ、館防備のみならず府中防衛の形をとっていたと考えられる。
また『言継卿記』等に見られる当時の府中の町の状況はかなりの繁栄を示しており、範政創築時よりも規模が拡大されていたと考えられる。また武田在館時において周辺諸城砦が、武田氏によって修増築されている事実を見ても、その増築がなされた可能性も考えられよう。
館の位置については、屋形町、城内説とあって一定しないが、当時の安倍川流路の問題と等高線に見られる平野部の高低差の地形的条件から見れば、当時の安倍川は藁科川と合流せず、安西、安東の町名から考えられるようにその本流は賤機山西方を伝って南下し、籠上附近から南東に屈折して駿府城三の丸南側を直進、さらに東に折れて、曲金から南下して駿河湾に注いでいる。また静岡扇状地は、賤機山から駿府城にかけて高く、駿府城を基点に、扇状に傾斜している。大正3年の安倍川水害の記録を見ても、田町附近で決壊した水は、旧安倍川流路に沿って流入し、屋形町を含めた呉服町以南が浸水しており、館地条件としては、屋形町方面に求めることは不適地と見なければならない。
天正造営の駿府城は、駿府館を拡張して造られたと考えられ、また駿府城は、天正造営時の城を更に南・東・北におしひろげて居城とすることを定めたことが『当代記』に見えることから、西端は、天正造営時の位置と考えられ、恐らく、市立病院を中心とした城内外に駿府館があったと推定される。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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