持舟城

もちふねじょう
  • 名称もちふねじょう
  • 俗称・別名城山、用宗城、持船城
  • 所在地-
  • 様式山城
  • 関連武将武田信玄 徳川家康 武田勝頼 三浦兵部 向井伊賀守 朝比奈駿河守氏秀

駿府防衛のために築かれたと考えられる山城

当城の築城年代については詳らかではないが、静岡市西南部の大崩道及び日本坂峠道を押える重要拠点であり、駿河防衛の一翼をなす地点にある事から、今川氏入府後に築城されたと見るべきであろう。
記録的には、永禄年間に関口刑部少輔親長(『今川分限帳』)、一宮出羽守宗是、同左衛門尉(『南海寺文書』、『駿河志料』)が見え、永禄11年(1568)12月武田氏駿河侵攻の際、落城し、同13年(1570・元亀元年)、武田信玄は三浦兵部、向井伊賀守らに守らしめている。(『駿国雑志』)
天正7年(1579)9月19日、徳川家康は持舟城を攻撃その日のうちに落城し、三浦兵部義鏡・向井伊賀守正重以下城兵四百余人が討取られ、翌8年閏3月27日、武田勝頼は、当城を修築し、朝比奈駿河守氏秀を置いている。その後、天正10年2月23日再び徳川勢の攻撃を受けて、遂に27日、和を請ふて開城、氏秀は久能山城に退去し、当城はまもなく廃城になったといわれる。(『家忠日記』、『武徳編年集成』)
持舟城は、静岡市の西南、石部山の先端部に位置し、駿河湾に面する標高75.5mの山上に立地している。
当城は、交通要衝地にあって、独立した形状を呈し、江戸時代の古絵図によると北に沼地をひかえ、前面は海に接し、現用宗港付近は、深い入江となって、天然の良港を形づくる要害地となっていた。しかも、武田の将・向井伊賀守は水軍の将であったことから、この地は、武田水軍の拠点でもあったと考えられる。
当城の遺構は、密柑畑の造成と、南側山腹及び山麓部分が、東海道本線・新幹線工事ならびに近年の農道建設によって著しく破壊されているが、その他は曲輪及び堀の遺構も良く残されている。大きくわけてⅠ・Ⅱの2曲輪からなり、城山観音堂のあるⅠ曲輪が主要曲輪で、南北25m、東西45mの広さをもち、西側に土塁を認める。この曲輪より東南方向と西北方向の尾根があり、段階上に曲輪が配置されている。Ⅱの曲輪は西にのびる山続きと南に続く小尾根の押えとして重要であり、段階上に曲輪を配置し堀によって遮断している。堀切は、Ⅰ・Ⅱ曲輪の間に当城最大の堀があって、この部分に井戸をうがつことから井戸曲輪と考えられる。そしてⅠの曲輪北尾根及びⅡの曲輪南尾根の遮断を目的として各1条が見られ、井戸曲輪西斜面に2条の竪堀そして西尾根山続きに1条ないし2条の尾根遮断の堀切があったと思われるが農道建設によって破壊されている。
当城の遺構を復元するに重要な手掛りとなるのが東京内閣文庫蔵の『駿河国有渡郡用宗古城図』で、この図を見ると、南側東海道本線線路部分に水堀があったことが明記されており、現在城下の地名が残ることから見ても平山城の形態を持っている。山麓部に通ずる虎口として、浅間山2カ所、浅間神社付近、北側部分、大雲寺付近の5カ所があって、大手は浅間神社付近にあったことが判り、南に浜街道の位置が記されている。搦手口は、大雲寺付近と考えられ、蔵屋敷と称する事から見ても、兵糧類の貯蔵所があったと推定される。
また曲輪及び堀の縄張も現状遺構と類似しており、特に石部山続きの尾根に大空堀があったことが知れる。土塁も各曲輪毎に設けられ、Ⅰ・Ⅱ曲輪に橋脚が架けられていた事が判るなど貴重な古絵図といえる。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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