丸子城

まりこじょう
  • 名称まりこじょう
  • 俗称・別名三角山、三角城、宇津谷城、鞠子城、赤目ヶ谷砦
  • 所在地-
  • 様式山城
  • 関連武将武田信玄 山県昌景 松平備後守

東海道に接する重要拠点に築かれた、今川氏駿府防衛の西の関門

当城の創築年代については詳らかではないが、東海道という主要幹道に接する重要地点であり、今川氏駿府防衛の西の関門として、今川氏入府後あるいは、それ以前の南北朝期まで遡る可能性も考えられる。
当城の城主の初見と見られる武将に、北麓に居館を構えた斎藤氏があって、宗長法師の『宇津山記』に「駿河国宇津の山は、今川被官斎藤加賀守安元しる所より(中略)、北にやや入て泉谷といふ安元先祖よりの宿所」とあって、斎藤加賀守安元先祖よりの居館があったことが知れ、今川記に応永19年(1412)の上杉禅秀の乱に今川範政に従った斎藤加賀守の名が見えることから応永年間もしくはそれ以前に斎藤氏が在城していた可能性が考えられる。
その後の記録はなく、永禄11年(1568)12月駿河に侵攻した武田軍の手中に帰し、同年正月18日信玄は山県昌景に2500人をつけて丸子城に陣城を構えさせ花沢城他の今川方諸城に対処させている。(『武徳編年集成』)、そして天正10年2月諸賀兵部、関甚五兵衛を在番に入れたが、落城記録もなく恐らく、持舟落城前後に武田勢は退去したものと思われる。そこで家康は一時期松平備後守を入れているが、家康関東移封とともに廃城になったと考えられる。
丸子城は、静岡市西方、旧東海道丸子宿の西、通称三角山標高140.1mの尾根先端に位置し、南に丸子川をひかえ、東に泉ケ谷、西に大鈩という大きい谷にはさまる要害地形をなしている。
当城は遺構は極めて良く残っているが、現在の遺構は武田氏時代天正年間に大幅な増築が行われたもので、今川氏時代の遺構は判断しにくいが、逆L字形の尾根上に現状より簡略な縄張が施されていたと考えられる。
この逆L字形の尾根上は大きく分けてⅠからⅣの曲輪に分かれており、最高所にあるⅠの曲輪は千畳敷と呼ばれる本丸部分で、南北70m、東西28mの規模をもち、周囲に土塁が取巻いている。北側Ⅱの曲輪と東尾根部分に桝形状の虎口を設けている。Ⅱの曲輪は3段の曲輪が接続してⅢの曲輪に続き堀切の部分に土橋がかけられている。
周囲の地形の中で東南北は急崖を呈するため、東側部分に幅のせまい帯曲輪を付属する他は目立った遺構はないが、これに比べて、西側傾斜は緩傾斜を呈するため、当城にとって最も特徴的な遺構が見られる。それは、Ⅰ曲輪からⅢの曲輪の西側斜面にかけて、斬濠状の土塁を兼ねた長大な空堀が南北につくられ、わん曲する小尾根上部には甲斐新府城に見られるような「出構え」が3カ所設けられ半円形の高土壇を設け、外側に空堀を付している。特に西南隅は三重構造になって出曲輪の要素を持っている。
Ⅲの曲輪はⅡの曲輪よりほぼ直角に東方向にまがり、標高137.4mあって東に下る傾斜をもち3つの小曲輪に仕切られている。Ⅳの曲輪に接続する部分に見事な三日月形の空堀があって、この東南端に虎口を設けている。この門が大手門と推定される。また土塁は西北東に高土居にてこれを取巻き、北尾根続き上には一条の堀切を設けて尾根の切断がなされている。Ⅳの曲輪は大手門前広場の感じで少し傾斜を持った東西に長い曲輪で「馬場」的要素を持つものと思われる。この他Ⅰ~Ⅲの曲輪周囲に十数条の竪堀があり、国道1号線に向って、4つの支尾根が伸びているが、この部分の高所にそれぞれ平場があって、堀切によって本城との境を分断した出曲輪が設けられていたと推定される。大手口は恐らくこの出曲輪の1つ元稲荷神社尾根付近に設けられていたと考えられる。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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