駿府城

すんぷじょう
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3重の堀を持つ大御所の城

  • 名称すんぷじょう
  • 所在地静岡市葵区駿府公園、追手町、駿府町他
  • 様式平城
  • 遺構東御門・巽櫓(復元)、二ノ丸堀、二ノ丸水路、三ノ丸堀
  • 築城年天正13年(1585)
  • 城主・城将徳川氏 中村氏 松平氏
  • 関連武将徳川家康
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

家康が築き、晩年を暮らし没した城

天下人・徳川家康が生涯最後の居城とし、大御所政治を展開した駿府城。現在は、二ノ丸と本丸は駿府城公園として整備されています。三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立ち並んでいますが、石垣と中堀・外堀が往時の姿を留めています。駿府公園の南東側には木造で復元された東御門と巽櫓(たつみやぐら)があり、一般公開されています。

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中世期、今川氏の領国として繁栄した駿府は、武田氏の支配を経て、家康の東海五カ国領有支配により、家康の領地となり、天正13年(1585)から本格的な築城が開始されました。『家忠日記』によれば、本丸や二ノ丸に石垣を配した城郭で、天守や小天守の存在していた記述もあり、織豊期の城郭としての機能を有していたものと思われますが、全体の規模等の詳細は不明のままです。
その後、江戸幕府を開いた家康は、慶長10年(1605)、征夷大将軍の職を息子の秀忠に譲ると、隠居地として駿府へ移ることを決め、同12年(1607)再び駿府城の修築を開始しました。本城は、三重の堀を持つ平城で、典型的な輪郭式(りんかくしき)の城郭です。堀は水堀で石垣を廻らせた堅固なつくりとなっています。

成り立ち

「駿府城の創築は徳川家康が天正13年(1585)8月14日に松平家忠に命じて起工したのに始まる。(『家忠日記』)」
この時期は、天正10年(1582)武田氏滅亡につづいて本能寺の変、山崎の合戦、翌11年(1583)賤ケ岳合戦と引き続き政権交代抗争が起っていました。同12年(1584)徳川家康は、織田信雄を擁して小牧・長久手合戦にて豊臣秀吉と対立しており、その対応と甲斐信濃を手中に収めたばかりであったため、その経営を計り、自らの領国、駿遠三甲信5カ国の中心としてこの築城を行ったと推察されます。
ところがこの築城が秀吉の不快を買うところとなり、工事を一時中断し、天正15年(1587)正月21日より工事を再開していることが『当代記』、『武徳編年集成』に見えています(天正14年(1586)、秀吉は妹旭姫を家康に嫁がせ、生母大政所を人質に送って家康と和議を結んでいる)。
そして同年2月5日二ノ丸経始、11月3日駒の段石垣完成。16年(1588)閏5月12日には本城天守が完成し、17年(1589)4月14日に全ての普請が完成しています。しかし天正18年(1590)の小田原攻め後徳川家康は、関八州を与えられて8月に移り、その後を受けて駿府には中村式部少輔一氏が14万5,000石で入城しました。中村氏は慶長5年(1600)関ケ原役後伯耆米子に移封され、家康の臣内藤豊前守信成が入りましたが、慶長10年(1605)4月、徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、翌11年(1606)駿府を隠居城と定めて、3月20日駿府を巡見、翌12年(1607)正月に築城を命じています。11年(1606)4月に内藤信成を近江長浜に移し、11月6日には、始め川辺村に定めていたのを変更して、天正造営時の城を南・東・北に拡大して築城することを定めていることが『当代記』によって知ることができます。
築城工事は慶長12年(1607)正月23日、幕府は滝川忠往、佐久間政実、山本正成、山城忠久、三枝昌吉を奉行として命じ、越前・美濃・尾張・三河・遠江の諸大名に助役させて2月に開始、3月25日には畿内5カ国と丹波・備中・近江・伊勢・美濃の諸大名に500石に付1人宛(『台徳院御実紀』は3人宛)の人夫を出させて工事を急がせており、『武徳編年集成』には5月23日本丸天守台経始、7月3日本城、天守台、殿閣悉く成就して、家康が本丸に入ったことが記されています。さらに8月15日には二の丸も半ばその工事を終え、10月28日に完成しています。 ところが、12月22日午前2時頃、本丸大奥よりの失火によって本丸の全ての建物が全焼し、翌13年(1708)正月再建工事が始まり、3月殿舎が完成して、家康が移り、8月20日七重の天守が上棟しました。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

駿府城は、静岡市の中心部にあって、静岡扇状地の最高所に立地しています。静岡市はこの駿府城下町として発達し、2重の水堀と石垣で囲まれる城内には主要官庁及び公共施設があり、中心街等が隣接して静岡市の中心をなしています。
駿府城の規模は、『静岡市史』によると本丸が120間4方、石垣高9間、天守台が30間4方で、石垣の高さ13間。二ノ丸は850間4方で、石垣の高さ5間から7間。三ノ丸は東5町47間、西5町9間、南6町40間、北6町40間余り、石垣の高さ7間から13間、総坪数15万5千坪と記されており、その構造は各種絵図等によって明らかにされています。
本丸・二ノ丸・三ノ丸からなり三重の濠と石垣によって囲まれ、三ノ丸には南に大手御門と四足御門が土橋によって架けられ、北に草深門、東に横内門の4門があり、二ノ丸にも4門、本丸には3門が堀に架けられていたことがわかり、全て枡形門になっていました。
本丸西北隅には天守台があり、七重の天守閣で、その構造については『当代記』他に記されており、その他の諸建築についても、『静岡市史近世編』所収「山本家古扇文書」に詳しく明記されています。
現在、駿府城跡は都市公園及び官公庁、病院、公共施設、学校等が造成されて、わずかに石垣及び水堀が残り、その面影を伝えているにすぎません。本丸は埋め立てられ、わずかに「家康公御手植密柑」がその痕跡をとどめるにすぎません。しかし、昭和55年(1980)12月に静岡県立美術博物館建設に伴う予備発掘調査によって、本丸天守台の遺構の一部が掘り返され、旧状をほぼ残している事が判明しています。二ノ丸は、周囲の堀が完全に残り、石垣は部分的に当時の石垣を残存する他、御門遺構の桝形は崩されています。三ノ丸は、周囲の堀が、市立病院から県庁入口までの南西部分と新静岡センターから水落交番付近までの東南部分が埋め立てられていますが、比較的旧状を残し、特に西草深から東草深に至る堀・石垣共に完存して、石垣上には土塁が残されています。その他、御門遺構として唯一大手御門跡が枡形遺構を残しています。
昭和44年(1969)に二ノ丸濠の貯水工事の際、二ノ丸東御門北側から、渡櫓の鯱が発見されている他、三ノ丸北門道路拡幅工事の際にも墨書石、石垣根元固定のための胴木が発見されています。なお、二の丸公園事務所前に井戸石枠が保存されています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

駿府城図(明治7年陸軍測量図・国会図書館蔵)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメント(2)

前略 所用でツツジが咲くころ関東地方の旅をいたします。過去に富士宮の本門寺の信長氏首塚、身延久遠寺、甲府の勝頼氏終焉の山城などを訪れましたが、徳川家ゆかりの地は高野山の墓所(立派でした)位です、今回は日本国を約300年間も平穏な国を築かれた徳川家のゆかりの地(岡崎城と駿府城)訪れようと思っております。
 このサイトを拝読させていただき、有意義な旅にしようと思うところでございます。 草々
 

いつ見ても、美しいお城ですね! 何度か、駿府城にお邪魔しましたが、このwebサイトを見てると、懐かしさが湧いてきて、また、行きたくなりました。

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