駿河国府

するがこくふ
  • 名称するがこくふ
  • 所在地-
  • 様式その他

安倍郡内にあった駿河国の国府

静岡県は、4世紀頃遠淡海、久努、素賀、廬原、珠流河、伊豆の小地域に分立し国造によって支配されたが(『先代旧事本紀』)、大化改新後(645)諸国が再編成されて、廬原国、珠流河国、伊豆国三国が合併され、駿河国となり、他3国が遠江国となって2国に分立。その後天武天皇9年(680)に伊豆国が分離独立したため、国府も旧珠流河国付近から静岡(安倍)の地に移ったと考えられている。
国府の成立については、『日本書紀』大化2年(646)に「初脩京師、置畿内国司郡司、関塞斥候防人、駅馬伝馬、及造鈴契、定山河」とあって、新国司制度とともに、全国的に駿河国も設立されたと考えられる。
その内容及び規模については、正方形のプランをとり、方八町の中に、官庁である国衛を設け、朱雀大路にかわるべき中央道路を有し、町中の道路は1町毎の碁盤目状の町割がなされていた。また4方に城門が設けられ、堀(溝)及び土居が周囲にめぐらされていたことが『令義解』に見られ、近年の発掘調査等によって次第に証明されつつある。
駿河国府の位置については『和名抄』に「国府在安倍郡上十八日下九日」と見えて、安倍郡内にあったことがわかり、大宝年間に安倍の市の存在も知れることから国府に連なる市と考えられる。しかしその所在については『静岡県史』等諸説あって、確証が得られない。
藤岡謙次郎氏はその著『国府』の中で、駿河国府を「方5町域」と推定し、南限を総社、横内先宮社を結ぶ長谷通りとし、東限は賤機山にそって総社前を南北走する道路にあてている。また国庁跡を、「県立静岡高校付近の町割のみが、近世城下町のそれと異なって正南北位をとることが注意されよう」と述べ、県立静岡高校東南隅の敷地の等高線が高いなど可能性が強いと考察されている。
また一部には、その南限が、駿府城にかかるとする説もあるが、記録・地名の手掛りも乏しく、駿府城及び城下町建設等の大幅な変更等によって、その確証をつかむことはむずかしい。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメントする

このお城を共有・登録する