小瀬戸城

こぜとじょう
  • 名称こぜとじょう
  • 俗称・別名向山砦
  • 所在地-
  • 様式山城

南北朝期、狩野氏安倍城の支城として築かれた山城

当城は南北朝時代狩野氏安倍城の支城の1つとして『静岡県郷土研究第1輯』に取り上げられ、その根拠は明らかではないが、史料関係記述の小瀬戸御所谷の由来、地理的状況及び遺構上から見ても安倍城支城の可能性を有していると考えられる。
狩野氏以後、東方野田沢越し朝比奈郷を支配した朝比奈氏が入ったと考えられ、岡部町『朝比奈文書』、天文12年(1543)9月今川義元判物に、駿河国当知行分の事として朝比奈谷、沓谷とともに藁科庄内富士雅楽助跡が含まれており、先規如としてある事から、かなり以前より朝比奈氏支配となっていたことがわかる。また、これを証明するものとして、藁科川東北岸に朝比奈一族の菩提寺見性寺(この寺は、同じく朝比奈一族菩提寺であり、朝比奈氏知行地沓谷の長源院末寺でもある。)があり、小瀬戸には、岡部町殿の朝比奈氏菩提寺総善寺末西福寺(廃寺)があったことなどからも、朝比奈氏ゆかりの地と見ることができる。
小瀬戸城は、静岡市の西、藁科川南岸の小瀬戸及び飯間集落にはさまれる逆三角形状の通称向山標高170mの山上に位置している。北は藁科川に面して、藁科川上流域と結ぶ藁科道に接して、河川交通の便も考えられ、東南山稜には、西又峠、野田沢峠、飯間峠谷川越えなど東海道筋に接する交通要衝地にあって、府中静岡に抜ける道の押えとして、南北朝から今川氏時代にかけて重要な防衛拠点と見られる。
当城の範囲は東西の主尾根と南西方面の尾根続き東南谷地(わらび沢)に接する部分までと考えられ、周囲は急峻な斜面によって囲まれる。その曲輪配置は比較的簡単なもので、長大な主尾根上の中央高所に東西60m、南北40mの規模の主要曲輪を設け、これをはさんだ東西に階段的に曲輪が配置される。
遺構は、東側尾根がゆるやかな斜面を呈する為、2条の堀切があって尾根を切断し、主要曲輪東端堀切に接する部分に土塁が認められる。西側の尾根筋は急斜面のため、堀切はみとめられないが、主要曲輪直下の斜面に2条の堀が東尾根から南尾根続きまで帯状にこれを取巻いている。尾根続きは、二段の曲輪跡が認められる他は目だった遺構はなく、谷地に接する尾根状に堀切があったと推定される。
居館跡は小瀬戸側谷地にあったと考えられ、門内、ゴショノ谷、町田、居廻り、打上、右エ門屋敷、常進屋敷他などの地名が残り、ゴショノ谷の地名から南北朝時代興良親王の御座所があったという伝承が伝わっている。
また飯間、小瀬戸の数ヶ所に五輪塔群が見られ、特に小瀬戸天神森上の宝筐印塔は、輪郭を巻かない関西式のもので、塔身部を欠くが、室町期と推定される。この他飯間側に津島神社、不動堂などの古社寺があり、鎌倉期と推定される木造薬師三尊仏がある。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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