久能城

くのうじょう
  • 久能城
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大御所家康埋葬の地

  • 名称くのうじょう
  • 俗称・別名久能山城、久能寺城
  • 所在地静岡市駿河区根古屋
  • 様式山城
  • 遺構曲輪(平場)、土塁、井戸跡
  • 築城年永禄11年(1568)
  • 城主・城将今川氏 武田氏 松平氏
  • 関連武将武田信玄 徳川家康
  • 文化財指定久能山東照宮の諸建物(国重要文化財)、久能山全域(国指定史跡)
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

駿府湾を監視する城砦

久能城は、静岡平野の東側に位置する有度山(日本平)と呼ばれる丘陵地のうち、東側にのびた舌状丘陵の先端部に立地した、古代より続く山寺を利用して築かれた山城です。現在、久能山東照宮の諸建物は2010年12月に国宝に指定、久能山全域は国指定の史跡となっています。

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久能寺が山城として利用された時期については、『高白斎記(甲揚日記)』によると天文5年(1536)の今川氏輝没後の後継者問題で勃発した花蔵の乱に際して、恵探方の福島党が久能山に立て籠もったとの記述があることから、戦国時代の今川氏のなかで久能寺が軍事的に重要であり、この頃には山城とする用途を考えていたことが分かります。
次に、『甲揚軍鑑』によると永禄11年(1568)、今川義元亡き後、武田信玄の駿河進行の軍略のため、久能寺を北矢部(現鉄舟寺)に移し、今福浄閑斎父子を入れて防備に当たらせた記録があり、これ以降武田氏が久能城を支配したと見られます。
永禄13年(1570)には土屋木工右衛門尉に久能城で海賊奉公をさせた記録があります。そのため、武田氏にとっての久能城の役割は、柳沢川河口に水軍の湊があり、この湊の管理と駿河湾の監視目的の城であったと見られています。
『武徳編年集成』によると、天正10年(1582)に武田氏が滅ぶと徳川家康は、城主の今福昌和を降伏させました。これ以降、久能城は徳川方の城となります。慶長12年(1607)まで久能山城の名前が見える古記録が残っているため、この頃まで山城としての命脈が保たれていたと思われます。
元和2年(1616)に徳川家康が没すると、遺言により遺体を久能山に移して御廟所としたため、この時に久能城の役割は完全に終焉を迎えたと見られます。

成り立ち

久能城は永禄11年(1568)12月駿河に侵攻し、今川氏真を破った武田信玄が要害地形をもつ久能山に着目して、久能山上にあった久能寺を北矢部妙音寺(静岡市清水区)に移して築城。翌12月正月今福浄閑斎、同丹波守父子に馬上40騎雑兵350人余り、弾薬、兵糧等3年の貯えを付けて守らせたといわれ(『甲陽軍鑑』、『武徳編年集成』、『鉄舟寺文書』)、南麓久能街道及び武田氏が新たに築城した清水の袋城そして持舟城を結ぶ要として、水軍行動の監視を行ったと考えられています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

久能城は、静岡市の東南部駿河湾に面する有度山の支尾根上標高219mにあって、東西に浸蝕谷を控え、四方は断崖絶壁を呈する天然の要害となっています。
南麓根古屋(ねごや)が居館地であり大手口として、山上に一の門があり、北側、有度山に続く尾根上が搦手口で豆腐山砦が設けられましたが、慶長年間に堀切りして切断したといわれ、現在は豆腐山及び尾根上も崩壊して明らかではありません。
久能城の縄張は、久能寺の遺構に立脚していると思われますが、東照宮造営によって、大幅な変更がなされていると考えられます。
規模は直線距離にして南北400m、東西広い所で200mの規模を持ち、北端最高所の愛宕郭から一の門にかけて、かなりの傾斜を持った地形上に築かれています。沼館愛三氏は「有度山魂を中心とせる古城館跡の研究」の中で、久能城を愛宕曲輪、一の城(一の門より現鹿園まで)と二の城(社務所から神殿まで)に区分し、二の城を更に区分して、本丸(楼門以北の地域)と二の丸(現ロープウェイ駅付近)に分けられています。
北方愛宕曲輪は、狭小な平場が認められますが、尾根続きに有度山に通ずるため、この方面からの侵入に対する物見と防備を兼ねたもので、本城の生命線と考えられ、有度山との中間に豆腐出丸を設けて、強固なものにしています。このため徳川家康は慶長年間ここを切断して、背後をたつ配慮を行っています。
愛宕曲輪より急斜面となって、西側に4段の曲輪を設け二の丸に続いており、西側崖縁に土塁が残存しています。本丸は現在の東照宮社殿付近で、造営時点において旧構が失われたと考えられますが、大方は、地形上にそって、3段の曲輪によって構成されていたと考えられます。そして本丸前面の社務所南に博物館の立地する尾根がつきだして、やや東にくびれて一の城に続きますが、この部分が、一の城、二の城を区分する重要部分で、城門(虎口)が設けられていたと考えられ、博物館立地の曲輪が障壁をなす恰好となっています。
一の城は、方形状をなして3区画からなり西南隅が1段下がって桝形状に一の門を開けており、造営時の石垣が残されていますが、一の城の曲輪配置はこの門を防備する形で配置されていることから、武田氏築城時に設けられた遺構とも考えられます。井戸は、一の城の勘介井戸、二の城、社務所前、楼門東の御供水井戸の3カ所がのこされています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

久能城跡概要図(作図:松井一明)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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