奥池ヶ谷城

おくいけがやじょう
  • 名称おくいけがやじょう
  • 俗称・別名城山、池谷城
  • 所在地-
  • 様式山城

井川地区と府中および藁科口を結ぶ要衝地に築かれた山城

沼館愛三氏は『静岡県郷土研究第2輯』で、奥池ケ谷城を狩野氏部将の居城と捉えているが、『駿河志料』では「城山、守将年歴も知らず、想ふに今川家臣居住の跡なるべし」と記され、玉川村誌には、今川範国が軍功によって駿河守護となった後の興国2年(1341)家臣友任殿が奥池ケ谷城山に居を構えたと記述しており、はっきりしたことはわからない。
しかし今川氏が駿河府中に入府する時期は、今川範政時代応永18年前後(1411)であるから、それ以前に南朝勢力の強い山間部に今川家臣が城郭を構える事は不可能と思われる。だからといって奥池ケ谷城のある位置は、井川地区と府中及び藁科口に結ぶ交通要衝地にあり、安倍金山等財源の宝庫である事から、志料説も否定できない要素を含んでいるといえよう。なお、当城には落城伝説が伝わっているが、その時代を明確に位置づける事は難しく、湯島城落城の永享5年(1433)頃前後もしくは、永禄11年(1568)頃の2つが考えられる。
奥池ケ谷城は中河内川が西に大きく屈曲して、東南北を取巻く標高360mの独立形状の山頂にあって、自然の要害を呈する。
曲輪は、東西に長い稜線上に配置され、中央に東西43.8m、南北13.5mの主郭をおき、東側に46×13.5mと14×11mの曲輪があり、この2つの曲輪を1条の堀切で分断、これより東斜面は南北の小尾根に分かれて、小曲輪を設け、山麓部井川道に接し、南側上下段部と北側下段部に堀切を認める。西側は五段の曲輪が斜面に築かれ、2段目以下に乱積上の不規則な石積みを認め、2段目から4段目までの北寄りに東西長さ30m位に亘って石組遺構が認められ、4段目中央附近に方40cmの樋口があり、水路兼用の井戸とも擬せられる遺構を確認するが、時期及び使用目的は判然としない。5段目以西は比較的緩傾斜となって中河内川に下る小径がある。
大手方面は、東南山麓部と推定され、この付近を字郷戸と称するという。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメントする

このお城を共有・登録する