庵原城

いはらじょう
  • 名称いはらじょう
  • 俗称・別名庵原山城、城山
  • 所在地-
  • 様式平山城
  • 関連武将朝比奈信置

中世、諸文献に活躍が伝えられる庵原氏が築いたと推察される山城

地理的条件からみて、中世、諸文献にその活躍が伝えられる庵原氏が築城し、代々活用した山城と推定されるが、立証する資料は乏しい。築造年代は残存する遺構・その縄張からみて、鎌倉時代と推定される。天正10年(1582)、武田氏滅亡の際、武田氏に加担した朝比奈信置が当城を守備し落城したと伝えられるが詳らかでない。
城跡は庵原川と山切川の両開析谷の谷口、庵原丘陵の最先端に位置する。南東約2kmで、庵原川河口に達する。城は標高約50m、比高約30mの丘陵頂部の狭い平坦地に築かれている。平坦部は長さ約150m、幅20~30mの広さを有する。単郭的な構造と思われ、平野に面する最先端の曲輪(30×60m)が本丸と推定される。本丸は二の丸に比べて一段(約1m)高くなっているが、空堀はなく、東、南部は急峻な傾斜面となり平地に至る。二の丸とみなされる地域は本丸よりやや広く、北側は狭い堀切りを隔てて三の丸に接続している。二の丸の西隅に、3.8×5.6m、高さ1.7mの突出部がある。一部削除された形跡が認められるが物見台がおかれた場所とも考えられる。この西側には幅1~2m、深さ5mの空堀が峰を切断している。土塁、井戸、門等の遺構は確認されていない。城に伴なう通路は明らかではないが、現在、東南裾から本丸北へ通ずる小道があり、また、北側(時候部落側)から二の丸北に至る農道が通じている。
丘陵の東裾には山切川が接して流れ、南方には、幅50mほどの小開析谷があり、築城地としては小規模ながら一応の条件を備えている。中世東海道は南方数百mの地点を通過していたと思われ、北方は山切川の開析谷をさかのぼれば、杉山、戸倉の部落を経て、興津川流域の両河内に通ずる間道がある。城の南には谷を隔てて古刹大乗寺が存在し、その南には、表門・的場・西には馬場・大手前の小字名が残っているが、本城との関係は明らかではない。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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