安倍城

あべじょう
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今川氏に対抗した南朝方の拠点

  • 名称あべじょう
  • 俗称・別名安倍本城
  • 所在地静岡市葵区内牧城山
  • 様式山城
  • 遺構堀切
  • 築城年南北朝~室町時代
  • 城主・城将狩野氏
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

今川氏に対抗した南朝方の拠点

静岡市の郊外、安倍川西岸にそびえる山上に位置する安倍本城を中心として、四方に久住(くずみ)・千代(せんだい)・羽鳥などの支城を配した広大な城郭群である安倍城。主郭からは、賤機山や今川館跡も一望され、戦国期においても有利な地勢だったことがうかがえます。

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城の創築は明確ではありませんが、南北朝期には、南朝方の重要な拠点の1つであったといわれています。安倍城から北東に延びる尾根の先端に位置する内牧城に安倍狩野氏の本拠があり、安倍城も狩野介貞長によって築城されたと伝えられています。貞長は、建武新政府の武者所結番で、禁中警護のために都にいましたが、足利尊氏と後醍醐天皇との対立により、出身地の駿河に戻り、南朝方として今川範国と対立することになります。この時、内牧城からの退路確保のために安倍城を取り込んだとするのが妥当と思われます。『李花集』には、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が狩野貞長の許にあると記されていますが、その後の活動は解明されていません。
足利方の今川範国が遠江南朝方の井伊氏の所城を攻撃し、井伊氏と連動する狩野氏の安倍城を攻めたのが暦応元年(1338)。その後、観応元年(1350)安倍城を拠点とする狩野孫左衛門尉等の出撃に対し、今川範氏の援将伊達景宗が駿河周辺で合戦に及び、翌年には手越河原でも戦うこととなります。
この時期の安倍城の姿については、想定するしかありませんが、遠江南朝方が密教系寺院勢力と結び、山岳寺院を取り込んだ城に籠もっていることから、おそらく安倍山周辺域にも山岳寺院があり、そのネットワークを活用した城であった可能性が高いと思われます。
駿河狩野氏は、その後も安倍地域で勢力を維持し、南北長合一後の「駿河の内乱」(今川範政没後の相続争い)時には、家督を相続した範忠に対して反旗を翻し挙兵に及びました。しかし、範忠軍に攻められ、湯嶋城が落城、奥城へと追い詰められています。連歌師・柴屋軒宗長の『宗長手記』では、数千の遠州軍を率いた狩野宮内少輔が安倍山中に攻め入り、三年の歳月を要して狩野介を滅ぼしたとしています。文献で見る限り、15世紀前半に安倍城は機能を停止することとなり、その後の記録もないため、今見る城は最終的にこの時期の改修を得た姿ということになります。

成り立ち

安倍城は、南北朝時代駿河南朝方の旗頭として活躍した狩野氏が築城したもので、山岳高地にある安倍城を中心に、久住・内牧他の諸城を包抱する一大城砦群を形成して、北朝今川氏に対抗したといわれています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

安倍城は、静岡市の西北、安倍川と藁科川にはさまれた羽鳥、慈悲尾(しいのお)、内牧にまたがり、山間部の最高所標高435mにあって、4方にのびる尾根上に久住・千代・羽鳥・西ケ谷・大代・内牧・水見色(みずみいろ)の諸城砦を配置する一大城砦群を構成していたといわれ、本城からの眺望は静岡平野を眼下に収めることができるとともに、大井川徳山城方面に西南の藁科道及び山稜伝いに通じています。
安倍城の曲輪配置は、北東から南西に伸びる主尾根上にあって、南北は急崖を呈するため、一直線上に配置され、南北240m、東西広いところで80m余りの規模で、中央部最高所に1の曲輪(南北40m、東西20m)があり、東側尾根上に3つの曲輪を設け、その間を3条の堀切で尾根を切断しています。これより北と東の支尾根にわかれて両者尾根上に数段の狭小な平場が見られます。北側尾根筋が大手口と云われ、安倍城居館地内牧城に通じ、東側尾根筋は、支城砦の1つ西ケ谷砦に通じています。 Ⅰの曲輪以西は1段の帯曲輪が付属して、5段の段状曲輪が接続し、4段と5段の間に1条の堀切が認められる他、久住砦との境の尾根上に1条の堀切があります。なお3段目以下に石垣が小規模ながら認められます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

沼館愛三「安倍城の研究」『静岡懸郷土研究』第一輯より転載
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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