小長谷城

こながやじょう
  • 小長谷城
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甲遠駿へ通じる要衝防衛の城

  • 名称こながやじょう
  • 俗称・別名小長井城、徳谷城
  • 所在地榛原郡川根本町東藤川、上原
  • 様式平山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀、枡形、馬出

小長谷氏代々の居城と伝えられている平山城

森平と呼ばれる河岸段丘の西より部分に、自然地形を利用して築かれていた小長谷城。甲斐や遠江、駿河へと通じる山間部の交通の要衝で、ここの防衛の役割を担っていたと考えられています。現在は森平へ上がる道路が整備されているため、徒歩でも容易に登城できます。

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北側と西側を丘陵末端の急峻な斜面に、南側を鳴沢が開析した深い谷に囲まれている小長谷城。城は現在徳谷神社地となっている主郭とB&G海洋センターとなっている副郭の、大きく分けて2つの主要な曲輪によって構成されています。
主郭とこれに付随する施設はよく残されていて、神社地であることから程よく伐採され、遺構をよく観察することができます。一方の副郭は、明治期に小学校が建てられ、その後も公共用地として利用されていたため改変が進み、遺構は確認できませんが、現在の駐車場と建物の間にある段差は、小学校時代から存在していたといわれているので、さらに複数の曲輪によって構成されていた可能性もあります。
小長谷城の廃城の時期は定かではありませんが、天正10年代(1852から90)ではないかと思われます。武田氏の滅亡により、甲斐・駿河の両国はともに徳川家康の分国となったものの、豊臣秀吉との抗争は継続していたため、家康にとって要地を防衛する必要は依然として残っていたと考えられます。

成り立ち

小長谷城は小長谷氏代々の居城と伝えられていますが、築城年代、その他の史実は明らかではありません。『駿河志料』によると、「...小長谷氏は今川家に属し...」とあり、『藩翰譜』によれば、「...土岐山城守と称し、子孫小長谷に移り、永禄中小長谷長門守と名乗り、武田家に属した。...」とあります。このことから、永禄11年(1568)、武田家の駿河侵攻により、今川家から武田家に属したものと推測され、城跡に現存する3号堀、4号堀が甲州流築城の証と考えられています。廃城の時期については、『静岡県城址史』によれば、「...武田氏がほろびてからは、城主長門守政房によって廃城になった。...」とあり、天正10年(1582)武田氏滅亡の頃と前後して廃城となったと推測されます。

現在

本城は、川根本町小長井の南端にある小高い丘陵上に位置しています。標高約360m、国道362号線より約60mの比高差をもち、城の南・西・北の三方は自然の断崖で、東側のみが背後の山に続いています。遺構は主曲輪とその北側に出丸を持つ連郭式です。主曲輪(約14,000m²)は、本丸、二の丸、三の丸を東から西に階段状に配置し、それぞれを土塁で仕切っています。この主曲輪の南東隅に楕円形の付属曲輪が二重に配置され、土塁と堀を配しています(3号堀、4号堀)。主曲輪の東側に2本の堀(1号堀、2号堀)、北・西側に1本の堀(5号堀)があります。5号堀は道路、その他で大部分が埋め立てられています。土塁は5号堀、1号堀に沿ったものが特に高くなっています。本丸、二の丸、三の丸を区切る土塁はそれよりも低く、南端にそれぞれを結ぶ通路があります。三の丸には井戸跡があります。主曲輪の北側に広い出丸があり、出丸の北側から東側にかけて深い堀と土塁があったといわれていますが、旧東小学校敷地造成により消滅しました。
府中への交通路としては、護応土城のある川根本町富士城、静岡市清沢、久能尾を結ぶものがあります。本丸跡には徳谷神社があり、最初は徳尾神社として、土岐山から分かれた小長井氏の守護神稲荷大明神が祀られていました。五輪塔、宝篋印塔は川根本町内では五カ所が知られています。そのうち、城の北側の断崖をおりた所のものが最大です。また、小長井にはもう一カ所五輪塔があり、長門守の弟の覚仙屋敷はそのあたりではないかと言われていますが明らかになっていません。関係地名としては、フジョウマル、馬場、下馬場、マカド、馬道、コマンカリ、駒越などがあり、馬に関連したものが多く残っています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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