護応土城

ごおうどじょう
  • 名称ごおうどじょう
  • 俗称・別名五応度城
  • 所在地-
  • 様式山城

今川範氏の徳山城攻撃における別動隊の将・伊達景宗に落とされた城

正平8年・文和2年(1353)2月13日、今川範氏の徳山城攻撃別動隊の将である伊達景宗によって落城。
川根本町富士城部落に近い標高955mの山頂に位置している。昭和47年8月に川根本中学校郷土クラブが当地を調査したものによると、2本の堀(内1本は巾5.9m、深さ2.8m)と土塁1、南西の緩斜面に幅30mほどの平坦地があったと記録されている。しかし、現在は山林であるが、それ以前はこの地で畑作を行っており、段々畑状のものや、溝になった道路状のものが残っており、塁段・堀との識別がしがたい。『榛原郡誌』によれば、「…安倍郡の藁科方面から無双連山の智者山方面に通ずる分岐点には護応土城がある。この城は規模は大きくないが、標高940mの尾根を主郭として南北に三段の郭、最高部に本丸があった。東・西・北方面と地形に恵まれて非常に堅固だった。南側は傾斜がゆるやかなので、その不利を補うため、各濠と連結出来る四つの濠を堀り、東の小高い所に曲輪を作り人工的に防御をかためてあった。」とある。
当城は、北は智者山、南西は清水砦(徳山城の砦の1つ)を経て徳山城へ、北西は川根本町藤川方面に通ずる交通の要点に位置している。『伊達景宗軍忠状』によると、「右為徳山凶徒対治、被成御教書2月10日御発向之間罷向搦手藁科越…<中略>…次同13日押寄護応土城致至極合戦、切入城内追落御敵等…」とあり、徳山城とは支城の関係にあったことがわかる。また、範氏が景宗に与えた感状の中には、「…藁科越壱木戸出五応度用害…」とあり、当城が徳山城を守る一の木戸としての重要な役割を持っていたことがわかる。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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