米倉城

こめぐらじょう
  • 名称こめぐらじょう
  • 俗称・別名しろ
  • 所在地周智郡森町米倉字東谷
  • 様式平山城
  • 関連武将松井氏 二俣近江守

米倉近辺を支配していた土豪のものと推定される平山城

米倉城は二俣近江守昌長が在城したと伝えられ、通説化されている感がある。その根拠は、『古老物語』・『遠江国風土記伝』と言った後世の編纂物で、信憑性は必ずしも高いとは思えない。昌長の事蹟の大筋は略同じだが、細部は少し違っている。昌長について明確な点を列記しよう。1.享禄2年5月より天文4年10月まで西手中尾生に在城していた。又、中尾生在城以前に二俣に在城したらしい。2.天文14年正月、駿河蒲原に在城していた。天文20年12月三河岡崎城に詰めていた。但しこの人物は近江守扶長と名乗り、社会的地位は山田・飯尾両氏と同格で、今川氏の寄親級の部将である。扶長と昌長の関係は、諱・官途等から、父子関係・近親関係・同一人の可能性がある。ともあれ、米倉城と二俣氏を結びつけるのは無理であろう。
米倉城跡は米倉の通称シロと呼ばれている山本氏宅を指す。豊岡方面より南下する台地の先端に築かれた居館である。一之曲輪(竪39m×横35m)・二(46×26)・三(17.30×25不等辺形)・天主曲輪と北に伸びて構築してある。又、三之曲輪の東側に腰曲輪がある。天主曲輪と北曲輪の間には幅4m程の空堀が残っている。『山本家文書』に拠ると、永禄年中に山本家の祖は、古城跡に屋敷を建て、堀溝を田地に埋立てたと言う。
この城は見付・川井方面より大当所・一宮に向う街道を見渡せる台地にあり、米倉近辺を支配した土豪の居館である事は間違いない。野部郷と野部氏(永正14年没落、米倉城北西2kmに所在する仲明城は野部氏の城)や、一宮荘武藤氏・匂坂氏・久能氏等近在の諸氏との関係の中で考えなければなるまい。尚、極楽寺に室町期と推定される宝篋印塔残欠があり、米倉城主との関連が推測されよう。又、「近江塚」(地元ではオオギ様)は、現状から判断すると、中世墓地の立地と考える事は困難で、敢えて臆測すれば、戦没地ならばよいかもしれない。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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