飯田本城

いいだほんじょう
  • 飯田本城
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時代に翻弄された城

  • 名称いいだほんじょう
  • 俗称・別名ほんじょう
  • 所在地周智郡森町飯田
  • 様式平城
  • 遺構曲輪、土塁、二重堀切
  • 築城年応永元(1400頃)
  • 関連武将山内通泰
  • 文化財指定森町指定史跡

飯田荘の地頭から国人領主に成長した山内氏の本城

太田川の中流域の東岸、西方に開析平野を望む、比較的平坦な丘陵の西端に位置する飯田本城。鎌倉時代から飯田荘(森町の中・東部)を支配していた山内氏によって築かれました。

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国人領主として飯田荘を治めていた山内氏は、戦国時代に入ってから、自らの領地を守るため、時に勢力の従い、またある時には決然と反旗を翻しました。山内通泰が当主となった天文14年(1545)頃には、遠江に勢力を拡大していた駿河の今川氏の被官となりました。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで敗死すると、弱体化した遠江は、これを領国としようとする徳川家康と武田信玄、そして領国を死守する今川氏真による三つ巴の様相を呈します。
永禄12年(1569)には、徳川家康による遠江平定が急速に進み、国人の大半が徳川方に従属していきました。それでも通泰は、今川への忠節に背くことはありませんでした。同年6月、家康は飯田城攻めを開始、榊原康政や大須賀康高らが攻め立て、主従もろとも全員が討ち死にしたと伝えられています(「改正三河風土記」より)。
元亀3年(1572)には、武田信玄の大軍によって遠江が席捲、その際に飯田城も落城し、その後5年間は武田方の城となりました。その後、徳川方によって奪還されています。

成り立ち

飯田城は飯田荘に地頭として入部し、そこに勢力を扶植し、国人領主に成長した山内氏の本城です。山内氏は相模の御家人山内首藤の系類で、天方城に拠る天方氏とは同族となります。山内氏は飯田郷を押領して在地領主化しました。その頃の当主としては、応永年間に崇信寺を開いた道美(法名)や久通(長禄元年)の名がみえます。下って応仁2年(1468)に山内駿河守は、奉公衆勝田越前守の本領であった宇苅郷をも掠領。宇苅郷は東1.5km程の所で、山内氏の発展を知る事が出来ます。しかし、戦国時代には天方氏同様、今川氏の被官となり、山内通泰・同右馬允通輔の名が見えます(崇信寺文書等)。今川氏没落後は武田・徳川両氏の抗争となり、飯田城はその争奪地となりました。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

城跡は飯田の字峯山と呼ばれる、標高50m程の台地に残っています。この辺の多くは茶畑となっていますが、主曲輪部の東、数10mの所には古墳群(有名な線刻壁画の横穴含)や城の堀切も残っていたと報告されていますが(『掛川の古城趾』等)、今はゴルフ場となり、まったく想像も出来なくなっています。主曲輪部は、城跡の碑の建つ部分で、その東に約18m四方の平坦地があります。また、南側には東西40m、南北50m程の曲輪があり、1.5m程低くなって東西50m、南北14m、29mの曲輪があります。土塁は上段の曲輪の東・西に明瞭に残っています。飯田城で注意されるのは、『遠江国風土記伝』に現在崇信寺のある所は城山と呼ばれ、同寺の城山への移転を説いている点で、ここから飯田城の二城説が登場しています。すなわち竹之谷から崇信寺にかけての地域を古城、先に触れた城を新城とするものです。しかし、これを検討するには余りに土地が改変されてしまっていて、明らかにすることはできません。
当城は居館ではないため、居住地を推測すると崇信寺より北西500mの所に堀之内、梶ケ谷という地名の所と、城の西麓にオツボガヤ・奥屋敷(陣屋もあるが呼称からして近世旗本領の陣屋)の所かと思われます。また、南1.5kmの所に市場・万丈カ谷等の地名もあり、山内氏と何等かの関係を推測させます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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