天方新城

あまがたしんじょう
  • 天方新城
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武田軍と徳川軍による争奪戦の舞台

  • 名称あまがたしんじょう
  • 俗称・別名じょうがたいら
  • 所在地周智郡森町向天方
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、虎口
  • 築城年永禄11年(1568)
  • 城主・城将天方通興 久野弾正
  • 関連武将徳川家康
  • 文化財指定森町指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

飯田荘に地頭として入り、国人領主となった天方氏の本城

太田川流域の平野部から北東に伸びた山稜、標高240mの高所に築かれた天方新城。比較的広い面積の曲輪に、方形を意識した配置となっていることから、兵駐屯や物資集積に主眼が置かれていたと考えられます。

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これまで森町向天方城ヶ平に位置する城が天方城とされていましたが、「遠州天方古城絵図」の発見によって、森町大鳥居にある本城山がこの天方古城を指すことが分かりました。近辺の城下には城藪(別称・城屋敷)が存在し、その背後の山稜にも天方氏関連の山城(白山城)が確認されています。そのため、大鳥居の天方古城を天方本城と呼び、向天方城ヶ平の天方城を天方新城と呼ぶことが一般的となっています。
天方本城は、三倉川に西俣に居館を構えていた山内氏によって応永年間(1394~1428)頃、大鳥居に築城されたと言われ、天方氏は、飯田荘の地頭であった首藤山内氏から分かれたもので、14世紀後半、山内豊後守通秀が天方城に在城した後に天方氏を称したとされています。
15世紀末、遠江では、守護斯波氏と遠江奪還を狙う今川氏との抗争が繰り広げられていました。明応3年(1494)、当主通季のとき、今川氏親は中遠の原氏討伐のため、後の北条早雲(伊勢新九郎盛時)を大将とする大軍を侵攻、今川軍は中遠三郡(現在の掛川市、袋井市、森町周辺)を席捲、通季は今川氏に従属しました。
文亀元年(1501)、斯波氏は信濃の小笠原氏と連合し、今川氏に対して反撃。この時の戦場となったのが座王(久野)城(袋井市)と天方本城でした。城主通季は、斯波氏襲来の前に城を捨て、今川方に身を寄せています。その後、今川方は城を奪還していますが、堅固な城の必要性を痛感した通季は、城の南側に新たな城(白山城)を築城しました。
その後、遠江は今川氏の配下となり、しばらく平穏な時期が続きましたが、城主通興の代となり、より堅固な城塞を求めて築いたのが天方新城です。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元を失うと、弱体化した遠江に侵攻を始めた徳川家康と武田信玄、そして領国を守ろうとする今川氏真によって三つ巴の様相を呈します。永禄12年(1569)、徳川家康による遠江平定に伴って国人の大半が徳川方に属するなか、通興は今川への忠節を貫きました。しかし、家康による北遠江における徳川に対する敵対勢力の一掃が開始されると天方新城は開城しました。
元亀3年(1572)、武田信玄は2万5千ともいわれる大軍を率いて天方新城に迫りました。すると通興は、一戦も交えることなく城を出て徳川方に身を寄せたため、天方新城は武田方に奪われました。翌天正元年(1573)3月、家康は武田の手に落ちた諸城の奪回戦を開始。天方新城も激しい攻防戦の末、再び徳川方のものとなりました。
天方新城は、同じく北遠江の山稜に展開する犬居城や社山城とは異なり、比較的広い面積曲輪に、しかも方形を意識した配置がされていることから、兵駐屯や物資集積に主眼が置かれていた模様。地理的にも、犬居城から太田川流域の平野部の北端にあたる交通の要衝に位置していることから、社山城や本庄山砦などとの繋ぎ城として重要な役割を担っていた山城と見られています。

成り立ち

天方城は飯田荘に地頭として入部し、着実に地歩を固めて国人領主に成長した天方氏の本城。天方氏は相模の御家人山内首藤氏の流れをくみ、飯田城に拠る山内氏との系譜的関係は明確ではありませんが、同族と推定されます。両氏は諱(いみな)に「通」の字を用い、通字化しています。天方氏は天方郷一帯を支配下に入れ、在地領主化して在名を名乗ったものと思われます(時期は明確ではありません)。
鎌倉末~室町期の動向は不明ですが、戦国期に入ると多少とも知られるように。永正7年3月本間源次郎宗季の今川氏真に提出した軍忠状に、「天方城敵楯籠候時、久野井浴谷相共逐合戦、佐野小次郎討捕、其頸福島允渡之畢」とあり、城の存在、今川氏に反攻する勢力が在城していた事が明らかになっています(『本間文書』)。
天方城攻防の年次は、明応~元亀年間の事で、氏親の遠江侵略に対する守護斯波氏や、それと結ぶ原、井伊氏等遠江国人の闘争といえます。佐野小次郎は城主とは断定出来ませんが、一廉の武将と考えられ、その後は今川氏に服属しています。通直(『あまつの道の記』)、三河守某(奥山文書)が城主と推定されます。
永禄12年(1569)6月、徳川家康は天方を攻略、「二ノ丸ヲ功破城主降参」とあり(『譜牒餘録』)、これから暫く徳川勢力となったが、すぐに武田氏に奪還されるなど、両勢力の争奪地となっています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

城跡は向天方の城ガ平(標高248m)に残っています。この地は森・天宮・城下方面等を望む事ができ、近在を監視する要地となっています。城の中核は、山頂に大きな曲輪(東西100m×南北55m)があり、二段になっています。この曲輪の南側には、特に遺構は見られませんが、他の三面には土塁が確認され、土塁の外には空堀をめぐらしています。そして、曲輪の北面に腰曲輪を設けてあります。山頂以外にも種々の施設があったと考えられますが、未踏査です。
当城は、戦闘の為の城で、城主の居館は南麓の「殿之谷」にあったと思われます。先年城ガ平を整備した時に、中世陶器片が出土し、甕の類であったと言われています。殿之谷の宝大寺墓地に40基程の五輪・宝篋印塔等がありますが、その中に室町時代を下らぬと推定されるものもあり、城主天方氏との関係が推測されます。天方氏関連史料が乏しく、その支配領域も明確でなく、支城・砦・烽火台の類もよく判りません。大局的には、天野・武藤・山内・原氏等と競合していたと考えられ、その中で天方氏の支配を考える必要があります。

縄張図

縄張図

出典:「静岡県の中世城館跡」

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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