浅羽庄司館

あさばしょうじやかた
  • 名称あさばしょうじやかた
  • 所在地袋井市諸井
  • 様式その他

源頼朝に従って平氏討伐軍に加わった浅羽庄司の館

『吾妻鏡』の治承5年(1181)3月13日の条は「安田三郎の使者…平氏の襲来を持って就中、命を請て橋本に向い、要害を構へんと欲する間、人夫を召す処、浅羽庄司宗信、相良三郎等に於て蔑如に成し、合力を致さず、剰へ義定(後遠江守護、安田義定)地下に居る時、件の両人馬に乗り乍ら、其前を打通り訖んぬ…」とある。一荘園領主にすぎぬ宗信が、一国の守護と抗争したことを記している。
また文治元年(1185)7月2日の条に「橘右馬允、浅羽庄司等高都より帰参す」とあり、奥州藤原氏討伐軍の中に浅羽五郎行長の名を見ることができる。(文治5年7月15日)
浅羽庄治三郎は、建久6年(1195)源頼朝・政子夫妻が南部東大寺大仏供養のため上洛した際、その後陣を仕めた。
以上述べたように『吾妻鏡』は浅羽庄司が源頼朝に従って平氏討伐軍に加ったことを記している(『浅羽風土記』)。
また『祝田観音縁起』には難波中納言の息女が浅羽庄司の家に嫁し、享禄年中(1528~32)祝田村に大御堂、小御堂など三宇の堂を建てたとある。
浅羽庄司の子孫は後向村に住み、伊藤善蔵と称して慶長年間(1596~1615)帰農したと伝えられる(『遠江国風土記伝』)。
館跡は小笠山山塊の西端、南に広がる丘陵裾部に位置する(標高約4m)。
現在宅地化が進み、網目状に縦貫する道路によて館跡は寸断され、今も用水路として利用される堀跡から館域を推定できるのみである。『浅羽風土記』に記された東西100m、南北130mの館域は現在の水路によって復元できる。
かつて町立幼稚園の西側と円明寺本堂裏に土塁が残っていたというが現在確認できない。
昭和28年3月に行った庄司館調査の記録には高さ0.8m~1.5m、幅5.5m~7mの土塁跡が館跡西縁と北東端にあったと記されている。館跡西半は地盤が低く、旧上浅羽主学校跡地と現円明寺境内は周辺に位べ微高地となっている。館跡はより東方へ広がるものかもしれない。小学校の南には山門があったという。
ショウジカイドの地名、御陣屋、北方の屋号が残る。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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