若子城

わかごじょう
  • 名称わかごじょう
  • 俗称・別名大洞、大洞城
  • 所在地浜松市天竜区佐久間町相月字向皆外
  • 様式山城

奥山氏の一族・奥山加賀守定吉が築いたといわれる山城

城跡は水窪川及び大洞沢にとりかこまれた要害の地である。山頂は標高331mを示し南北に12m、東西に10m約120㎡の広さを持つ。この山頂から南南東に向け130mの狭い屋根が続く、山頂から南へ約50mの地点に幅7m深さ5mの堀切が見られる。また、尾根の終末にも幅5m、深さ3mの堀切が見える。山頂からの展望は北に開け久頭郷高根城跡をはじめ、向皆外、松島、芋堀の集落が望める。南南西は若干の展望はきくが視界は狭い。
若子城は、伝承によれば奥山氏の一族奥山加賀守定吉が築いたといわれ、定吉及びその子大膳亮吉兼が住したという。奥山氏の兄弟和せず兄奥山美濃守定之(伝中部水巻城主)と信州遠山城主土佐守と相計って若子城を潰すとある。当時の奥山一族は分裂しており、兄弟間の抗争があったことが知れるが、兄美濃守及び土佐守によって落城することには少し疑問がある。徳川家康文書の研究の中に家康が、奥山惣十郎に宛た所領安堵状(天正9年)に「就今度忠節之儀、中部領三ケ一並西手之内雪名村、殊あひ月之郷只今取来候間(後略)」とある。若子城跡の立地する地籍は古くから相月郷であることから、この時代に家康の手中に入ったものではないかと考える。
時代が少し遡るが、元亀3年武田信玄は奥山大膳亮に所領をあてた文書がある(水窪奥山家所蔵)この奥山大膳亮が若子城主奥山大膳亮吉兼であるとするならば、他の奥山氏がそうであったように武田の南下とともにその傘下に入っていたことが知れる。天正3年武田氏の敗退により家康の北遠地方への進出が始まる中で、奥山氏はつぎつぎと平定されていく。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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