三岳城

みたけじょう
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南朝方の拠点の城

  • 名称みたけじょう
  • 所在地浜松市北区引佐町三岳字城山
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、虎口、二重堀切、堀切
  • 築城年暦応2年(1339)
  • 関連武将大河内貞綱 斯波義達 井伊直盛 朝比奈泰以
  • 文化財指定国指定史跡

浜名湖北岸の交通の要衝に立地する山城

浜名湖の北、南北朝期特有の立地を満たす、高い丘陵上に築城された三岳城。眼下の街道は、北へ進むと長篠方面、西へ行けば豊川方面、東は二俣方面へと通ずるもので、交通の要衝に位置していることが分かります。

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三岳城の歴史は深く、古い記録によると、暦応2年から3年(1339-40)に、井伊の谷を領する井伊道政が、南朝方の後醍醐天皇の皇子である宗良(むなよし)親王とともに立て籠もった山城とされています。当時、浜名湖北岸の南朝方の山城としては三岳城をはじめ、千頭峯城、奥山城、天山城、井伊谷城、大平城が、平城として鴨江城が知られています。このうち鴨江城は現在の鴨江寺で、奥山城も現在の奥山方広寺の前進寺院と見られ、大平城でも出土した遺物から城内に山岳寺院が存在していたことが分かっているなど、これら南朝方の城と中世寺院とが密接に係わっていたと見られています。三岳城においても、本曲輪で13世紀から16世紀の陶磁器が採集されていて、現在は山腹にある三岳神社の関連施設が山頂にあって、それを山城として利用したと見られています。つまり、自然の要害を活かしたのが南北朝期の山城の姿で、堀切や曲輪の造成は、戦国期の遺構と考えられています。
城の構造は、本曲輪・二の曲輪群と東の曲輪群に分けられます。前者は最高所の本曲輪を中心に帯曲輪と狭いニの曲輪があり、西側の尾根筋を遮断するための二重堀切が配置されています。いずれの曲輪もあまり広さはなく、大きな兵力を駐屯させるためではなく、西側の尾根筋からの攻撃への備えと、眼下の街道の監視所としての用途が考えられます。
一方の東の曲輪群は、本曲輪群よりも低い尾根筋にあり、土塁によって分断された二つの広い曲輪を中心しています。自然地形を巧みに活かしていて、造成度はあまり高くありません。その広さから、兵力の主体の駐屯が目的だったことは明らかです。ここは東からの尾根筋を遮断する幅約10mの堀切に守られ、その外側には土塁が盛られ、さらに防御性を高めています。こうした工夫は、類似したものが大平城にも見られ、共通の築城者が関与していたと思われます。
戦国期後半の三岳城の城主については不明ですが、現在確認できる城跡は、永禄年間末期に始まり天正4年まで続く徳川氏対武田氏による遠江攻防戦の時の姿を留めていると見られています。特に、本曲輪西側の二番堀切からは、永禄末年に武田氏の影響のものと、在地勢力による改修があり、その後に徳川氏の改修によって東の曲輪が設けられたと考えられます。

成り立ち

三岳城は、井伊谷の東北方、標高467mの山頂を中心に、東西700mにわたる尾根上の山城で、南北朝期、井伊道政が拠り南の鴨江城・北の天山城・西の千頭峯城・東に大平城を支城とし、足下に奥山城・井伊谷城・谷津砦・上野砦・今城等の諸城砦群を配した本城として、南朝方の拠点としての役割を担っていました。『李花集』に記されている「井伊城」とは、この三岳城のことです。
後醍醐天皇の皇子宗良親王は、この城に立籠って南朝の復興を画策しました。しかし、興国元年(1340年)足利尊氏側の武将、高師泰・仁木義長らによって攻められて落城、親王は駿河の安倍城へと退きました。
その1世紀半後の永正11年(1514年)、曳馬城主大河内貞綱が尾張の斯波義達と結び、反今川の兵を挙げた時、井伊直盛が斯波に味方して三岳城を守りました。今川氏親の将・朝比奈泰以の猛攻にあい落城、井伊氏は奥山城へ逃れました(『引佐郡誌』)。
昭和19年(1944)3月7日国指定史跡となりました。

現在

金指の街並の北方3km、三岳の村落を登りつめるとそこに三岳神社があり、鬱蒼と茂げる杉木立の間の石段を登ったところにあります。ここはかつて、南方から迫る敵に備えて築いた南方出丸の跡と言われています。しかし、現在は神社前が整地され、道路が拡幅されて破壊が進んでいます。また、杉木立の伐採も行われています。神社の西側から急斜面を約300m登ると、東西方向に連なる尾根の鞍部に出ます。これを北へ下れば川名の村落へでることができます。鞍部には幅5mの濠が、尾根と直角方向に掘られ、本丸と二の丸とを分けています。昭和9年(1934)、沼館愛三氏の調査図が城の形体を比較的よく伝えていると思われ、それをもとに現地を見てみると次のような状況となっています。
本丸へは鞍部の西、桝形門跡から西へ入ります。桝形は1辺10m程。ここから塁段状の斜面を登ると、最高地(467m)の本丸跡へ出ます。山頂部の20×20mぐらいが平場となっていて、そのまわりを帯曲輪がめぐっています。本丸から西方へ尾根伝いに急斜面を降ると、本丸を囲むような、尾根に直角方向に濠があり、さらに降ると、沼館氏の言う、かくし曲輪がつくられています。さらに急斜面を下りた西に縦濠(幅5m)があり、それを越えると免荷から花平を経で井伊谷へ通じる小径があります。本丸を中心に東西約500mの曲輪となっています。濠壁や塁段が、ところによっては自然岩石を利用し、一見石垣風になっています。
二の丸は東側の尾根端まで約200mの規模。中央部に20m規模の複曲輪を中心とし帯曲輪・外濠・縦壕(幅7~8m)が残っています。東端の縦濠が、川名・滝沢方面へ備えています。しかし、国指定に際しての昭和16、17年(1941、1942)の本丸実測以外に正規の実測がないため、十分に城の形を把握することはできません。そのため、沼館氏実測の遺構以外にも、遺構が存在している可能性があります。
現地は山頂を除いて全山々林となっています。本丸付近からの展望はすばらしく、360度遮るものはありません。足下の砦群は勿論のこと、天竜川をこえた磐田原、小笠山、南の遠州平野から浜名湖、北の三河国境田沢城も一望することができます。
井伊氏の戦時の城として、三岳城は南北朝における南朝方の拠点となりましたが、この城へはおよそ4本の道が考えられます。それは三岳・滝沢・花平・川名集落ですが、このうち、川名からの攻略によって落城したと言われています。
三岳は周囲に諸砦群をもっていることが知られていますが、その多くは南側に集中しています。しかし、西側の谷下・花平・免荷付近にも砦か、出城的性格の施設があってもよいと思われます。谷下は後に花平近藤の屋敷があり、その裏から三岳へ登る小径があったと言われているのに加え、免荷から三岳城は最も近い距離にあって、尾根近くに水の得やすい場所もあると伝えられています。また、三岳城の東側にも小字名で北岡小屋・フシカイトなどがあり、城との関係が注目されています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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