堀川城

ほりかわじょう
  • 名称ほりかわじょう
  • 俗称・別名鵜の毛城、堀河城
  • 所在地浜松市北区細江町気賀字沖通り
  • 様式その他
  • 関連武将徳川家康 斎藤為吉 竹田右京

家康の遠江侵攻に備え、今川氏の勢力下にあった土豪が築いた城柵

永禄11年(1568)、徳川家康の遠江侵攻に備え、今川氏の勢力下にあった気賀の土豪、斎藤為吉・竹田右京・新田四郎・山村修理・尾藤主膳らの築いた城柵。都田川南岸の沖積地気賀沖水田に祀られていた屯倉神社を油田東岩脇の水神社(現位置)へ合祀させ、その跡地へ築いたと言う。周囲を柵で囲い、浜名湖の潮の干満を利用し、満潮には舟を使わないと城へ入れない構造になっていた。しかし、永禄12年3月、干潮を待して大攻勢をかけた家康軍によって落城。スキ・クワを武器にたて籠った農民2500人の多くは討死し、生き残った農民700人も呉石塔の下で斬殺され、気賀村は焼打ちになったと言う。
城跡遺構は圃場整備事業による区劃整理で全く残っていない。ただ、その所在をとどめる一基の首塚と、町指定文化財を示めす記念碑が建てられているだけである。
天保期の絵図によれば、都田川の本流は現位置より北を流れ、南へ幾本か分流する堀川が流れている。堀川城はその堀川にかこまれた油田側に築かれ、城ノ川・鵜ノ毛川の地名が見える。また、呉石塔の下は今も獄門畷と呼ばれ、「その首を埋め寺を建つ」たのが前山寺屋敷の円頓寺であると『遠江国風土記伝』に見えるが、明治以後廃寺となっている。同時期に築かれた刑部城は東方約1kmの地点にある。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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