二俣城

ふたまたじょう
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北遠における戦略拠点

  • 名称ふたまたじょう
  • 俗称・別名蜷原城
  • 所在地浜松市天竜区二俣町二俣
  • 様式平山城
  • 遺構本曲輪・二の曲輪ほか曲輪多数、天守台、石垣、土塁、空堀、土橋など
  • 築城年南北朝時代か?
  • 関連武将徳川家康 武田信玄 武田勝頼 大久保忠世
  • 文化財指定浜松市指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

武田と徳川が激しい攻防を繰り広げた天下の堅城

天竜川と二俣川に挟まれた、標高90mの台地に建つ二俣城。今川・徳川・武田と支配者が入れ替わった山城は、当時の北遠地区における勢力図の変遷をそのまま現す、まさに群雄割拠の戦国時代の象徴的な城といえるでしょう。

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遠州平野の要に位置する二俣は、地理的な要衝として時の権力者から重要視されていました。16世紀初頭、この地を巡って斯波氏と今川氏が争った末、今川氏の領地となりました。
永禄11年(1568)、遠江に対する徳川家康の侵攻が始まると、二俣城主の松井氏は戦わずして徳川方へ内応。家康は城代として鵜殿氏長を置きました。
元亀3年(1572)10月、武田信玄が上洛をめざし大軍を率いて遠江へと侵攻、二俣城への攻撃を開始しました。ところが、二俣城は天竜川と元の二俣川に囲まれた天険要害の地にある、難攻不落の堅城と知られ、城代・中根正照は籠城し徹底抗戦を試みました。攻めあぐねていた武田軍は、やがて城に井戸がなく、井戸櫓を使って天竜川から水を汲んでいることをつきとめると、天竜川へ大量の筏を流して井戸櫓を破壊。水の手を絶たれた籠城側は武田方へ降伏しました。
この落城をきっかけに武田軍は遠州平野へと入り、三方ヶ原の戦いで徳川軍を退け、そのまま京をめざしました。しかし、信玄が病にかかり、上洛を中止して信濃へと引き返すことになり、信玄は帰国の途上で病死しました。すると家康はすぐさま反撃を開始、遠州・三河にある武田の諸城を攻撃しました。そして天正3年(1575)5月、長篠・設楽原の戦で武田軍に勝利すると、直ちに家康は二俣城へ軍を送り、二俣城から約1kmの距離にある鳥羽山のほか、毘沙門堂・和田ヶ島などに付城(前線基地)を築いて包囲。7ヶ月にわたる籠城戦の末、奪還を果たしたのです。
また、二俣城は、家康の嫡子・松平信康が自刃させられた悲劇の城としても知られています。天正7年(1579)、家康の同盟者である織田信長に、家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通しているとの報がもたらされ、信長は家康に、この二人の処断を求めました。家康は築山殿を殺害した後、二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じました。このとき服部半蔵正成が介錯を務めましたが、涙のあまり刀を振り下ろせなかったとの話が残されています。
信康、享年21。遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られました。翌年、家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、そこに清涼な滝があったことから「清瀧寺」と改められました。寺、信康の墓ともに現存しています。

成り立ち

文献において「二俣城」の名称は、南北朝時代の建武5年(1338)1月の遠江御家人、内田孫八郎致景の軍忠状に二俣城の戦いで軍功を表すとあるのが初見です。『遠江国風土記伝』には「文亀年間(1501~1503)二俣近江守昌長之を築く、昌長は今川総五郎の幕下二俣氏なり」とありますが、その論拠が明らかでなく、間違いとされています。このことは、文亀元年(1501)に斯波氏の応援要請に対し、信濃の小笠原貞朝が、斯波氏の拠る二俣城に入る(「小笠原文書」)とあることから、この頃まで二俣城は斯波氏の拠点であったことにより明らかです。
今川の城となったのは、永正3年(1506)とされる「小笠原文書」に、今川氏一門の瀬名一秀が二俣城に在城したことが記されていることから、この頃と思われます。なお、これら「文書」でいう二俣城は、現天竜区役所付近にあった笹岡城(二俣古城ともいう)をさしていると考えられます。現在の二俣城は、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元戦死後に、今川氏によって対徳川・武田の備えとして、現在地に新城として造られた城です。今川滅亡後は、徳川・武田争奪戦を通して両勢力によって改修され、さらに、天正18年(1590)二俣城主となった堀尾宗光(浜松城主堀尾吉晴の弟)によって、天守閣や石垣をもつ近世城郭に改修されたものです。

歴代城主

戦国時代の終焉とともに廃城された北遠の拠点
二俣城は、北遠の戦略上の拠点として激しい争奪が繰り広げられたことを物語るように、めまぐるしく城主が交代しています。再度徳川領となった天正3年(1575)、家康は重臣・大久保忠世を城主として入城させました。天正18年(1590)に家康が関東に移封されると、豊臣支配下の浜松城主・堀尾吉晴の弟・宗光が入城。関ヶ原合戦の後、再々度徳川領となりましたが、城としての役割はもはやなく、戦国の世の終わりとともに廃城となりました。

現在

城跡は天竜川と二俣川に囲まれた自然丘陵(標高90m)の先端(南端)に位置しています。現在、大手門跡をはじめ桝形、喰違虎口、土塁、堀切、井戸等の遺構や本丸、二の丸、蔵屋敷等の大小曲輪跡がほぼ原形をとどめているうえ、本丸の西側中央に野面積みの高さ4.5m程(基底部12.7×11.3m)の天守台が残っています。
特に本丸は城内の中枢部にあって、不整形な四角形を呈して南北に3ヵ所の虎口を持っています。北虎口は喰違虎口で幅約3.8m、南虎口の一つは4.3mの桝形虎口で、2009年の発掘調査で瓦葺屋根の中仕切門があったことが明らかとなっています。本丸の四周は土塁または石塁が巡っていたようですが、現在西側は一部分が欠失しています。 二の丸は本丸の南側に隣接して一段低く(約1.5m)構築されていて、周囲は土塁が囲み、東方に石垣に挟まれた大手門の跡があります。この石垣の上には渡櫓門が存在していたと推定されます。
蔵屋敷は、二の丸と、深さ7m、幅5~6m程の堀切を隔てて南側に接続し、西側に土塁と井戸跡を有しています。なお、この堀切は2010年に行われた発掘調査によって、箱堀で、深さも更に1.5mほど深くなることが明らかになっています。 北曲輪は、本丸の北側に位置し、現在旭ヶ丘神社境内となっています。一部に土塁の跡を残し、その北側は二俣城と蜷原砦を画す大堀切となっています。
その他、蔵屋敷の南側には南堀切を隔てて南曲輪があり、本丸・二の丸の東西断崖下にもいくつかの帯曲輪、腰曲輪群があります。
出典:「静岡県の中世城館跡」p.422-423に加筆

縄張図

縄張図

二俣城跡概要図(作図:加藤理文)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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