浜松城

はままつじょう
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家康天下統一の出世城

  • 名称はままつじょう
  • 俗称・別名引馬城、曳馬城、引間城
  • 所在地浜松市中区元城町
  • 様式平山城
  • 遺構復興天守、天守台、天守曲輪石垣、土塁の一部、井戸
  • 築城年15世紀後半
  • 城主・城将徳川家康 堀尾吉晴 高力忠房 水野忠邦
  • 関連武将徳川家康 本多重次 本多忠勝 本多忠真 酒井忠次
  • 文化財指定浜松市指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

戦国の往時を偲ばせる野面積みの石垣

天下統一を成し遂げた若き日の徳川家康が居城していたことで有名な浜松城。復興された天守閣の中には関連資料や武具などが展示され、最上階は展望台となっています。また、自然石を加工せずに積み上げた「野面積み」の石垣は、往時のまま遺されており、多くの歴史ファンを惹きつけて止みません。

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家康が浜松へ移城する以前、この地は引馬(曳馬)と呼ばれ、引馬城(曳馬城)を拠点としていました。引馬城は、現在の元城町にある東照宮付近に築かれた小規模の平山城でした。築城者、築城時期は諸説がありますが、14世紀後半に、『宗長手記』の伝える三河吉良氏の被官巨海新左衛門尉による可能性が高いといわれています。
永禄8年(1565)、「遠州そう劇」に加わった飯尾氏最後の城主・豊前守連龍が、今川氏真に背信の疑いをかけられて謀殺されました。永禄11年(1568)12月、遠江に侵攻した徳川家康は、城主のいない引馬城に大きな抵抗も無いまま入城しています。
元亀元年(1570)、家康は長子・信康に岡崎城を譲り、自身は引馬城へ移城し、三遠経営の本拠としました。家康29歳の時でした。
家康は、引馬城を拡張する際に、この地にあった荘園の名にちなんで城名・地名ともに「浜松」と改めました。浜松城の城郭は、南北約500m、東西約450m。三方原台地の斜面に沿い、天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一直線に並ぶ「梯郭(ていかく)式」の築城法がとられています。これは、各曲輪(くるわ)が隣接しながら梯子状になっている様式で、本丸の背後が自然の防衛線となるような城に多く見られます。
家康は、天正14年(1586)に45歳で駿府城(静岡市)に入るまでの17年間を浜松城で過ごしました。有名な「姉川の戦い」「長篠・設楽原の戦い」「小牧・長久手の戦い」もこの間に行われ、ここから参戦しました。元亀3年(1572)の「三方ヶ原の戦い」は「関ヶ原の合戦」以上の激戦と伝えられています。家康にとって、浜松在城の17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったといえるでしょう。
徳川治世下の浜松城は、藩政約300年の間に25代の城主が在城しましたが、『徳川実紀』によると、老中に6人、大坂城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されたため、「出世城」と呼ばれるようになりました。なかでも有名なのが、天保の改革を行った水野越前守忠邦。忠邦は肥前唐津藩主から、天下統一を成し遂げた家康にあやかろうと、禄が減るのを承知で自ら浜松への転封を願い出て浜松城主になったと言われています。

成り立ち

築造者、築造時期とも定かではありませんが、『宗長手記』の伝える三河吉良氏の被官巨海新左衛門尉による可能性が高いようです。その後、今川氏の支配下となり、飯尾氏3代が城主を務めました。この頃の城域は、江戸時代の絵図に「古城」と記された現東照宮周辺の東西125m、南北150mの範囲と推定されます。
元亀元年(1570)に引馬城に入った徳川家康は、この城を浜松城と改名し、三河・遠江の領国経営の本拠地として、大規模な改修工事を行っています。記録によれば、天正年間にも数回にわたり大規模な修築が行われています。家康時代の浜松城は、東北隅に古城、西へ二之丸、本丸、続いて天守曲輪、西端城曲輪、作左曲輪といった範囲であったと推定されます。現在見られる石垣や天守台を持つ近世城郭は、天正18年(1590)に浜松城に入封した豊臣秀吉配下の堀尾吉晴の改修によると考えられます。また、江戸時代作成の浜松城絵図に見る三之丸は、江戸時代前半期に整備された可能性が高いと思われます。

歴代城主

約300年間に25代の城主
浜松城には、元亀元年(1570)に入場した徳川家康から明治元年(1868)に去った井上正直まで、298年間に再任を含めて25代の城主が在任しました。
浜松城は東海道の要所であり、家康が在城したとあって、代々譜代大名を封じ、城主の交代が激しく、また、城主のほとんどが幕府の役職につき、浜松在住が短かったため、領民との結びつきは比較的薄かったといわれています。

堀尾帯刀吉晴(第2代、在城期間1590~1599)
唯一の豊臣系城主。尾張国に生まれ、16歳で初陣。後に出雲松江24万石の城主になりました。吉晴が築いた松江城は現存し、天守閣は国の重要文化財に指定されています。

松平左馬亮忠賴(第4代、在城期間1601~1609)
三河国碧海郡桜井の出、桜井松平の一族。母親は家康の妹。天正10年(1582)生まれ。家康は上洛の途中に立ち寄り、吉光の脇差を与えるなど、甥としてかわいがりました。28歳で横死。

水野対馬守重仲(第5代、在城期間1609~1619)
家康が浜松城へ入った元亀元年(1570)年に、尾張国で生まれ、7歳で家康に近仕。大番頭、頼宣の付け家老から慶長14年(1609)浜松城主に。元和7年(1621)、52歳で没しました。

高力攝津守忠房(第6代、在城期間1619~1638)
三河国高力郷の出。祖父、清長は三河三奉行の一人で「仏の高力」と呼ばれました。天正12年(1584)に生まれ、15歳の時に秀忠の御前で元服、翌年武蔵岩槻城の城主。晩年は駿府で忠勤を励みました。京都で死亡。享年72。五社神社に、忠房が寄進した石の手水鉢が二基残り、一基は現在も使われています。

太田備中守資宗、摂津守資次(第8・9代、在城期間1644~1678)
資宗は武蔵国生まれ、小姓組頭、書院番頭から松平信綱らと幕府六人衆(のちの若年寄)に。寛永18年(1641)に「寛永諸家系図伝」をまとめ、徳川一族、家臣団の系譜を調べるのに便利で貴重な資料となっています。日光山の普請、鳳来寺の造営を奉行。能吏型の知恵者。81歳で没。
資次は幼少から家光に仕え、寛文11年(1671)浜松城主を継ぐ。寺社奉行、大坂城代を勤め、五社神社、鳳来寺の修復にも当たりました。二代が寺社に通じ、資宗が江戸送り地蔵で知られる米津町の安泉寺を創建。市内には、二代の息のかかった寺社が多くのこされています。

松平伯耆守資俊、豊後守資訓(第13・14代、在城期間1702~1729)
資俊は、宮家の臣本庄家の出。万治3年(1660)生まれ。伯母の桂昌院が綱吉の生母だったため、幼いときに綱吉に仕えました。64歳で死去後、資訓が養子になり城主に。京都所司代、侍従。

松平伊豆守信祝、伊豆守信復(第15・16代、在城期間1729~1749)
信祝は天和3年(1683)に生まれ、10歳のときに綱吉にお目通りし、御前で香合わせをしたといわれています。老中職を15年勤め、将軍から厚く信任されていました。浜松城で目安箱を初めて設けました。
長子信復は延享元年(1744)に継ぐ。久能山東照宮の修復にあたりました。

井上河内守正経、河内守正定、河内守正甫(第19・20・21代、在城期間1758~1817)
先祖の正就は秀忠の乳母の子。正経は常陸国笠間城主の跡を13歳で継ぐ。寺社奉行、大坂城代、京都所司代・侍従を経て城主に。のち老中。皇族に信頼され、宮家との結びつきが深かったといわれています。
正定は13歳で継ぎ、寺社奉行になるも33歳で死亡。三代目の正甫の時、陸奥国棚倉に移村となり、のち、この子孫が浜松城主に返り咲きました。

水野越前守忠邦、金五郎忠清(第22・23代、在城期間1817~1845)
忠邦は老中として天保の改革を推進しました。寛政6年(1794)、江戸・唐津藩上屋敷で生まれる。水野家の始祖忠元の叔母が家康を産んだ於大の方。19歳で唐津六万石の藩主。24歳で浜松城主(六万石)に。時に実高二十万石の唐津を捨て、エリートコースの浜松へ移るため、種々画策したといわれています。大坂城代、京都所司代、老中と栄進。浜松では強圧的な藩政の改悪に、農民騒動などを起こしています。江戸で没。享年58。

井上河内守正春、正直(第24・25代、在城期間1845~1868)
正春は文化14年(1817)まで浜松城主だった正甫の長子。井上家二度目の浜松在城。浜松では悪政の始末、海防、明治維新と難問が相次ぎ、正春は2年目に42歳で没し、長子正直が継ぐ。浜松城最後の城主として動乱期の苦難の道を歩みました。

現在

浜松城の古絵図と古い地形図とを対照しつつ、城の構えを復元すると、東西、南北それぞれ約700mという大規模なものだったことがわかります。大手門を入ると、左右に侍屋敷、その奥右手に三之丸、三之丸の奥に侍屋敷と古城がつづきます。三之丸の左手奥に一段高く二之丸、西へ堀をへだてて高く本丸、その西にさらに高く天守曲輪という具合に、梯子をのぼるような形に、各々の郭を配置しています(梯郭式)。天守曲輪の西側には、一段低く西端城曲輪、その西方には堀を隔てて作左曲輪が続き、西はずれには堀を配し、番所を置きました。古城の東側と天守曲輪を含む部分の南側には、二重堀を作っています。以上の内、石垣を築くのは、本丸と天守曲輪の一角のみで、他は土壘と築地塀で囲むか、作左曲輪のように柵で守りました。しかし、戦災とその後の都市化によって、天守曲輪とその周辺を残すだけで、遺構はほとんど消滅してしまいました。
本丸と堀をへだてた南側の丘は、出丸跡ですが、これを取り巻く堀は、古い絵図でも享保の頃のものに表現されているだけです。かなり古く埋もれたものと思われます。烟硝蔵は西方かなり離れた位置にあります。また近世後期には、西南方に藩校が作られました。
出典:「静岡県の中世城館跡」
なお、平成20年度と21年度に、天守大手門跡と富士見櫓跡の調査が行われ、大手門跡からは、門の礎石や土塀跡、雨だれ落ち、排水溝が、富士見櫓跡からは、お茶湯などの風雅な行事に利用された建物遺構が発見され、建物復元計画への貴重な資料を得ることができました。

縄張図

縄張図

浜松城遺構再現図(『浜松城跡』1995年掲載図)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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