野地城

のぢじょう
  • 名称のぢじょう
  • 俗称・別名宮崎城
  • 所在地浜松市北区三ケ日町野地字城
  • 様式平城
  • 関連武将徳川家康

東西交通の要点にして、浜名地域掌握の拠点の城

野地城は猪鼻湖の東岸大崎半島の基部野地区の西方湖岸に望む半島台地に位置し、北西南三面が湖水に面し東方のみ野地区の集落に接している。残存遺構の内、目ぼしいのは大手北側の水濠土塁と西郭の土塁等である。規模が大きな平城であるのは湖北東西交通の基点として増築されたからと考えられる。本城には本丸、二の丸の遺構あり本丸は殆ど削平化しており、二の丸西曲輪の濠塁と大手門跡附近の北部濠塁を残している。東西350m、南北200mの楕円形掻上げ平城である。二の丸東北側に幅7m、深さ7mの堀が残り、西曲輪東南側に幅7m、深さ5mの堀、物見台の東南西側に幅10m、深さ7mの堀、東北側に幅7m、深さ7mの堀が鍵手に残っている。土塁については二の丸の東北堀に沿って高さ3m、馬踏3m、敷7mの土居、西曲輪の西隅神明宮境内入口に馬踏5m、敷7mの土居が東西に連っており物見台は高さ3mに及んでいる。残存地名として西曲輪に字城の地名、二の丸の中央一帯を字御殿と云い、その東部を字御馬屋といっている。本城築城の経過は西方の佐久城が地域的に偏っているので、徳川家康が永禄12年(1569)浜名地域を占領後10数年を経た天正11年(1583)本多百介信俊、上村庄右ヱ門を奉行として東方の街道沿いに移し、後慶長以後家康が東西交通時の寄留池とする立場から増築拡大した趣である。当地域が湖北の要衝としての存在を重視した徳川幕府はこの城を後永く5代将軍綱吉の時代まで約1世紀に亘り存続させ、概ね代官預りの城として浜名地域掌握の據点とし、又交通上の重鎮ともしていた。
次に城歴は天正11年(1583)築城以来延宝8年(1680)廃城まで96年間存在し、その間本多忠勝、本多信俊、全信勝、三浦為春城主となり元和5年(1619)より市野、彦坂、米倉等各代官の預り城であった。そして事件としては寛永3年(1626)将軍家光上洛休憩所となり御茶屋御殿を造立、延宝8年(1680)幕命により廃城となりその建物器具を荒井関所へ移している。しかし幕末文久2年(1862)には将軍家茂上洛準備のため城地の取調べが行われている。
以上の来歴に依っても本城は東西交通の要点として重視されて来た事が覗える。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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