中尾生城

なかびうじょう
  • 名称なかびうじょう
  • 俗称・別名中日向、中日尾城
  • 所在地浜松市天竜区龍山町中日向
  • 様式山城
  • 城主・城将向坂長能 徳川家康
  • 関連武将今川氏輝 向坂長能 徳川家康

南北朝期に築かれた天野氏の出城の役割を担っていたとされる山城

中尾生城跡は南北朝期に築かれた天野氏の出城的存在であった。
中尾生城には二俣近江守が住していたことが『遠江国風土記伝』に所載される文書によって知れる。それは享禄2・3年(1529~30)のことである。天文4年(1535)今川氏輝は向坂長能を中尾生城主に命じている(向坂家譜)。
永禄11年の今川朱印状「水窪奥山文書」には、奥山兵部丞、左近将監父子に中尾生城の普請を命じており、今川氏は徳川氏・武田氏の動きに備えたものであろうか。
永禄11年武田信玄の駿河の進入とともに「東海の覇者」といわれた今川氏も滅亡していくなかで、同12年徳川家康が奥山父子に宛た安堵状(越後奥山文書)によると、奥山兵部父子は徳川氏の支配に入ったことが知れる。しかしこの安堵状の所領は、かっては父子の所領であったが、総領家奥山大膳亮によって押領されていたのであるから、実質的には空手形であった。天正2年11月奥山右馬助、左近丞に与えた武田朱印状を最後に中尾生の奥山氏は見えなくなる。天正17年(1589)犬居六所明神の棟札に見える奥山右馬助は先の右馬助と同一人物だとすれば、徳川氏に赦されて犬居山中に帰農したのだろう。
中尾生城は龍山村中尾生の山中にある。城跡附近は字名を城山久野と呼ぶ。標高479mに本丸があり、本丸は東西17.7m南北17.3mの広さを持ち城稲荷が祀られる。本丸から13m下った所に二の丸と考える平地があり90㎡の広さを持つ。二の丸から東南にかけて尾根が続き、尾根に約60㎡の平地が2箇所ある二の丸から30m下った所に幅5m高さ3mの堀切が見られる。ここから尾根は狭まり約40m南下すると約120㎡の平地を見る。この平地の北側約10m下った所に450㎡ほどの平地が見られるが、遺構とみるべきかは断定できない。一方二の丸から南に伸びる尾根に約450㎡の郭と思われるものがある。
本丸から約12m下った西北から北にかけて長さ68m、幅3mの空堀が見られる。堀から一段下った北東側約150㎡の郭と思う平地がある。他にも数箇所平地は認められるものの遺構とは断定できない。
本丸の西10m下った所が西側の山標高460mとの鞍部である。西側の山地にも数箇所の平地は認められ、また山頂から幅3~5mの縦溝が約30m下っているのは注目したい。
本丸の位置する山地と、西側の山地とを含めて中尾生城の範囲と考えてもいいのではないかと思う。
山頂からの展望は勝れ、東に秋葉山、南から西にかけ天竜市境の山並が望まれ、北は白倉集落から佐久間町境の山が望める。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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