鳥羽山城

とばやまじょう
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全山要塞化された山城

  • 名称とばやまじょう
  • 俗称・別名鳥羽山砦
  • 所在地浜松市天竜区二俣町二俣字鳥羽山
  • 様式山城
  • 遺構石垣、土塁、庭園
  • 築城年16世紀中頃か
  • 城主・城将大久保忠世
  • 関連武将徳川家康 大久保忠世

徳川家康が二俣城奪回のために構築した、戦国期の本格的城郭

二俣城の南に位置する鳥羽山城。二俣城とは一城別曲輪の関係でしたが、二俣城が武田方となった時点で鳥羽山城は捨てられ、徳川方の陣地となったと見られています。

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鳥羽山は、南の視界という点では、二俣よりも有利ですが、城域とすべき丘陵部が広大で、また、緩やかであるため、立て籠もるには不向きな地形となっています。そのため、遠江の橋頭堡を必要としていた武田軍にとっては、二俣城の方がより重要だったものと思われます。
鳥羽山は、近年の開発が著しく、どこまでが城の遺構なのか掴みづらくなっていますが、中心域付近には石垣や土塁が残存しています。大手口の正確な位置も不明ではあるものの、南東側の道路の一段上に、通路を規制すると考えられる石垣の下部が存在するため、東側から通路が続き、本丸南側の本丸大手口へと至るルートが大手道と考えられています。平成21年3月の試掘調査で、この大手道の幅が約6mと確認され、県内にある城郭では最大規模の通路幅を持つ城であったことが判明しました。
随所に残る石垣は、緩やかな勾配を持つ野面積みで、文禄期の築造と見て間違いありません。二俣城と同じ石材を使っていますが、河原石を利用した間詰めが丁寧で、見せるための巨石も配されています。
本丸は四方を巨大な土塁で囲まれ、東側の土塁際には礎石建物の一部が確認されています。その南側には、枯山水の庭園と言われる巨石の立柱石が残っていますが、庭園遺構に伴うものかは、明らかではありません。しかし、土塁囲み本丸は、居住性を考慮した建物の存在が推察されます。
つまり、二俣城が戦闘的な城であるのに対し、鳥羽山城は御殿機能を優先した構えと考えられ、それが幅6mの開放的な通路や、丁寧に仕上げた石垣などに現れていると言えるでしょう。
現在見られる城は、石垣や礎石建物などから考えると、堀尾宗光が二俣城を改修する際に、同時に構築したもので、十分な面積を確保できない戦闘的な二俣城の居住性を補完する施設として、新たに設けたものと見られています。

成り立ち

鳥羽山城が世間から「幻の城」であると云われるのは、戦国期の本格的城郭であり、且つ縄張も二俣城以上に大規模な構造を持ちながら、明確な城史に欠けているためです。
『浜松御在城記』等には、天正3年(1575)に徳川家康が二俣城を奪回するために構築した府城群(鳥羽山城、毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ケ島砦)の一つで、特に鳥羽山には本陣を備えた、と記されていますが、先年(昭和49年、50年)の本丸発掘の際の出土品等から考察する限り、城の創築年代は少なくとも室町中期以前に遡る可能性があります。従って、天正3年の二俣城奪回戦の際には、城をここへ新規に構築したのではなく、以前からあった砦か城跡を修理拡張して、本陣と定め、大久保忠世に守らせたものと考えられます。
ところで、二俣城はその後6カ月に亘る徳川方の兵糧攻めで、結局は年末になって落城(降伏開城)しますが、その際に用済みとなった鳥羽山城が廃城となった形跡がありません。むしろ、二俣城の出丸として維持されただけでなく、一層改修を加えられて桝形門や庭園まで附設され、本格的な戦国城郭に発展した跡が窺えます。しかし、天正18年(1590)には、徳川家康の関東転封にともない、二俣城も廃されて大久保忠世(最後の二俣城主)が小田原城に移るため、その時点で鳥羽山城も廃城の運命を辿ったものと思われます。

現在

鳥羽山城は、二俣城のある蜷原台地と二俣川を挟んで(二俣川の旧流路は、鳥羽山の直下を西へ流れ、字川口で天竜川と合流していた)対峙した字鳥羽山の山頂(標高108m)に構築された連郭式山城で、大規模な城郭といえます。
縄張は、鳥羽山最高所の本丸を中心に前後左右に二の丸、三の丸、蔵屋敷、井戸曲輪、北の丸、笹曲輪、家老屋敷その他の腰曲輪、帯曲輪を配した上、東方に連なる尾根上には更に有名無名の曲輪を設けて搦手の備えとし、且つ要所要所を深い堀切で切断するなど、全山要塞といった構えとなっています。ことに本丸と二の丸は、虎口と防塁を堅固な野面積みの石垣で構築している点は本格的であり、桝形門や暗渠排水溝、更には庭園遺構の存在等と合わせても、鳥羽山城の当地方における中世城郭の中で占める位置は、極めて特異な所にあるといえるでしょう。
なお、鳥羽山城は、昭和49年(1974)と50年(1975)には本丸の一部が発掘調査され、建物跡、石列、暗渠、井戸、庭石等の遺構とともに、北宋銭や古瀬戸その他の中世陶器片が多数検出されました。いずれも鳥羽山城が室町時代から戦国時代にかけて、かなり長時間に亘って、機能していたことを物語る出土品ばかりでした。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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