鶴ヶ城

つるがじょう
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本曲輪の周りに横堀を持つ山城

  • 名称つるがじょう
  • 俗称・別名鶴箇城
  • 所在地浜松市天竜区佐久間町浦川字川上
  • 様式山城
  • 遺構空堀、土塁
  • 築城年16世紀後半か

相川と吉沢川にかこまれた要害の地に位置していた城跡

三河との国境近く、西から流れる相川と南へ流れる吉沢川の合流点の山頂部に築かれている鶴ヶ城。信濃と東三河を結ぶ別所街道(信州往還)を押さえる城と考えられています。

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本城は本曲輪を中心に、山頂から派生する尾根筋に曲輪を配した、比較的小規模な山城です。最大の特徴は、本曲輪の周りに横堀(幅約6m、深さ2m)と土塁が廻っていること。静岡県内の城で横堀が登場するのは、武田軍の侵攻による築城によってであり、それ以前の今川段階の城では見られません。また、徳川氏の城で横堀が採用されたのは、武田方の城を接収した天正4年(1576)以降のこととなるため、改修時期は自ずと16世紀後半以降ということとなります。
城の歴史を伝える記録は見られませんが、近世になって作成された『山田家由来書』によると鶴山弾正を城主とし、『庄田家文書』では永禄8年(1565)鶴ヶ山大磯之丞の築城と記されています。北遠情勢から考えれば、奥山氏段階で三河や信濃からのルートを押さえるために築城されたと見ることができますが、現在確認されている遺構は戦国後期以降であることを明確に物語っています。奥山氏段階で創築され、戦国期に改修されたとも考えられます。その場合、横堀の採用などから武田氏の関与の可能性が高いといえます。そうすると、奥三河の山岳地帯の山家三方衆を武田方とした元亀3年(1572)以降に、武田信玄の命によって、あるいは徳川方の攻撃に備え、天正年間初頭の頃に武田勝頼の手によって改修されたと考えられます。
他方、徳川方によって改修された可能性も残されています。その場合、一つは天正4年(1576)に北遠地域から武田の勢力を一掃した後に、別所街道を押さえるために修築したケース、もう一つは小牧・長久手合戦(1583年)の際に万が一、三河から撤退する場合の備えとして、山越えルートの確保を狙って改修したという二つケースが想定されます。

成り立ち

鶴ケ城は永禄8年(1565)に築城されたと『庄田家由緒書』に記されていますが、支が相違するなど詳かではありません。『山田家由緒書』によれば、城主は鶴山大弾正といい、若殿は熊千代、家老は山田半之丞といわれています。一方「庄田家文書」によると、城主は鶴ケ山大磯之丞で、家老は山田半之丞、同熊千代丸とあり、家老の氏名については両由緒書では合致するものの、城主の名がそれぞれ違い、熊千代丸の位置付も違うなど、判然としていません。

現在

相川と吉沢川に取り囲まれた、要害の地に築城されていた鶴ヶ城。
城跡は標高340mにあり、山頂の本丸は東西に30m、南北に30mの広さを持ち、東を除いて他は展望にすぐれています。本丸の西に二の丸と思われる平地があり、東西に13.5m、南北に8.0mの広さがあります。北西には伝承によると姫の屋敷と云われる平地があります。また本丸の北東にも平地が見られますが、屋敷地と位置付けることはできません。
本丸直下に北北東から東側を除いて89.1m、幅約2.2mの空堀が本丸をとりまいています。また本丸から約8.7m下った所に東南東から南にかけ39.7m最大幅6mの帯曲輪が見られます。城跡の東側約200m下った所が鞍部となっており、堀切の役目をはたしています。この鞍部から吉沢部落に通ずる古道があるなど、山城の特徴を残しています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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