高根城

たかねじょう
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急峻な地形を活かした城

  • 名称たかねじょう
  • 俗称・別名久頭郷城、久頭合城
  • 所在地浜松市天竜区水窪町地頭方
  • 様式山城
  • 遺構櫓、門、塀(以上復元)、曲輪、土塁、堀切、堀、居館跡
  • 築城年応永年間、1414年頃
  • 城主・城将奥山氏
  • 関連武将奥山大膳 徳川家康 武田信玄
  • 文化財指定浜松市指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

天険を活かした信遠国境の山城

近くを流れる河内川が水窪川に合流する地点の自然の地形を利用して築かれた高根城は、15世紀前半この地を治める奥山氏によって築城されました。桶狭間の戦いの後、信濃から侵攻してきた武田氏の所有となり、大改修されました。そのため、奥山氏時代と武田氏時代の遺構が見つかっています。

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遠江の最北端に位置する高根城は、南北朝時代の応永21年(1414)に、後醍醐天皇の孫にあたる尹良(ゆきよし)親王を守護する目的で、地元国人領主・奥山金吾正定則によって築かれたのが始まりとされています。南北朝期の城は急峻な地形そのものが城であって、視界確保のために樹木を伐採し、小屋掛け程度の建物を建て、周囲に柵を廻らせるといったもので、高根城もこれらの特徴を備えています。
戦国期に入り、今川氏がその勢力を急速に伸ばすなか、奥山氏は永正年間(1504~21)および大永年間(1521~28)に今川氏から知行宛や知行安堵を得ていることから、今川配下の武将として組み入れられ、遠江の北部の大半を支配下に置いていたと考えられます。
ところが永禄3年(1560)、今川家の当主・義元が桶狭間で討たれると、北からは甲斐の武田、西からは三河の徳川に挟まれるかたちとなり、奥山家内部で、このまま今川氏に従うのか、武田に就くのか、それとも徳川に帰属するかで抗争が起こりました。そして永禄12年(1569)、四代目城主・民部少輔貞益のとき、信州遠山郷の遠山土佐守に攻められ落城、武田配下となりました。
その後、高根城は遠江最北端の武田軍の拠点として整備され、武田氏独自の築城術によって改修されました。年代の特定はできませんが、元亀3年(1572)、甲斐の武田信玄が上洛のため大軍を率いてこの地を通ったときには既に大改修が行われていたのではないかと見られています。
天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦で武田勝頼が信長・家康連合軍に敗れ、徳川家康によって武田氏の勢力が遠江から一掃され、主を失った高根城はそのまま廃城となりました。家康は、武田勢力の衰退によって、信濃国境警備のための城郭を必要としなかったのです。

成り立ち

『相月奥山上家書』によると、応永21年(1414)に奥山金吾正定則ならびに諸氏が後醍醐天皇の孫にあたる尹良親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を建て、葛郷高根に城を築き、十余年在城したとされています。
その後も奥山氏の居城として機能していましたが、『遠江国風土記伝』では永禄12年(1569)、『奥山由緒』では享禄元年(1528)に高根城が落城したことを記しています。
出典:「静岡の山城ベスト50を歩く」

歴代城主

南朝の遺臣、奥山氏
高根城を築いた定則は、井伊氏の重臣で南朝方に味方した奥山六郎次郎朝藤の二男として生まれました。南朝の皇子・尹良親王を奉じ、北遠の山峡の地に築城したのも、南朝の遺臣としての矜持と言えるでしょう。
その後、高根城主は良茂、能登守定之、民部少輔貞益と受け継がれましたが永禄12年(1569)、落城。初代城主の定則が当地へ入ってから四代、160余年にわたった奥山氏による支配は幕を閉じました。

現在

高根城は三角山の北尾根先端に本丸、二の曲輪(くるわ)、三の曲輪の3つの曲輪を一直線に配置しています。三の曲輪の背後は中央に土塁を設けて二重にした巨大な堀切を設け、尾根筋を完全に遮断しています。この堀切よりもさらに外側を南の城として城郭遺構とする考えもあるようですが、現況では自然地形であり、城郭遺構とはいえません。
本曲輪は南北30m、東西約20mを測り、曲輪の東北隅に北山麓からの登城道に繋がる虎口が構えられ、南東隅には二の曲輪、三の曲輪の裾を通って南の尾根に取り付く城道への出入り口となる虎口が構えられています。曲輪内は発掘調査の結果、倉庫的機能を持つ礎石建物、二間四方の井楼櫓(せいろうやぐら)と推定される掘立柱建物などが検出されています。
二の曲輪は本曲輪の南側に位置し、南北約20m、東西約5mの規模で、南端に基壇状に高まりが残されていて、櫓が構えられていた可能性があります。本曲輪との間は約10mの堀切が配されています。この堀切は西側では竪堀(たてぼり)となります。 三の曲輪は二の曲輪の南側に位置し、南北約20m、東西約5mの規模で、北側には櫓台状の土壇が存在しています。二の曲輪と三の曲輪の間には幅約8m、深さ約6mの堀切が設けられています。堀切の東端からは削り残された土橋が検出されましたが、この土橋は城の東斜面に設けられた城道として利用されています。 発掘調査によって出土した遺物には15世紀代の奥山氏段階のもの、16世紀前~中期の奥山氏段階のものと、16世紀後半の武田氏のものが出土しています。この中で15世紀代の奥山氏段階のものが圧倒的に多く、この段階では山城内で居城していたと考えられます。特にこの時期の遺物は本曲輪に集中していて、15世紀代の高根城は本曲輪だけが城として機能していたと思われます。
なお、発掘調査によって検出された遺構については、平成13年度に復元整備が実施され、戦国山城の姿を知る上で格好の事例となっています。
出典:「静岡の山城ベスト50を歩く」

縄張図

縄張図

高根城跡概要図(作図:加藤理文)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメント(1)

高根城公園に春は桜、秋は紅葉で満杯にしたいものです。市民、町民、等に縁のある方からの寄贈、寄附を募り、寄付者の氏名を記して生育を楽しんで頂く方法は一考の価値があると思いますがいかがでしょうか。小生、及ばず乍ら協賛させて頂きます。

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