佐久城

さくじょう
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家康の遠江侵攻により廃された城

  • 名称さくじょう
  • 俗称・別名浜名城、本城
  • 所在地浜松市北区三ヶ日町都筑
  • 様式平城
  • 遺構曲輪、土塁、空堀、馬出、土橋、井戸跡
  • 築城年14世紀代、伝承では貞和4年(1348)
  • 城主・城将浜名氏
  • 関連武将浜名頼広 大屋頼次 徳川家康 本多信俊
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

鎌倉時代から続く名門・浜名氏の居城

浜名湖につながる猪鼻湖に突き出した岬に築かれ、今川と命運をともにした浜名氏が十代にわたって本拠とした佐久城。猪鼻湖畔のリゾート開発や果樹園開発などで一部失われていますが、主郭などの現存部分は緑地帯として保存されています。

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浜名湖の北部、現在の三ヶ日町一帯を支配していた浜名氏の居城・佐久城は、貞和4年(1348)に浜名清政が築城したと伝えられています。
清政の時代は南北朝の争乱期にあたります。当時の浜名湖北部一帯は、南朝方の領袖であった井伊氏の勢力下にありましたが、清政だけはこれに従わず、北朝方の足利尊氏に加担しました。そのため次第に圧迫されて退去、伊勢・美濃にあった所領に逼塞し、捲土重来を期しました。
そして歴応2年(1339)、北朝・足利軍の反撃が始まると、清政は高師兼軍に合流して井伊攻めに加わり、活躍。翌年正月、井伊氏の本拠・三岳城(浜松市引佐町)が落城、8月には南朝方最後の砦・大平(おいだいら)城も攻略され、浜名湖北部の南朝方は一掃されました。
こうして浜名清政は再び地頭として故郷に返り咲き、室町時代のはじめの貞和4年(1348)、それまで猪鼻湖西岸の鵺代(ぬえしろ)にあった居館を廃し、東岸の大崎半島に築城、居城としました。それが佐久城です。以来、子孫は足利幕府の奉公衆となり、常に京都にあって将軍の側近として活躍したほか、歴代歌人としても名声を得ていました。
10代目城主・浜名肥前守頼広の時、永禄11年(1568)12月に徳川家康が遠江へと侵入。その頃今川氏は、桶狭間の戦いで主・義元を失い没落しかけていたにもかかわらず、頼広は守護・今川氏のために当城に籠って抵抗を示しました。しかし翌12年1月、家康による攻撃が再開されると、2月、頼広は城を逃れて甲州へと落ち、鎌倉以来の名門は滅びました。
その後、家康の家臣・本多百介信俊が入城しましたが、天正11年(1583)、廃城となりました。

成り立ち

南北朝時代の貞和4年(1348)頃、浜名氏中興の祖、浜名左近大夫清政が築城したと伝えられ、以後天正11年(1583)まで230数年間存続しました。その間の城主は浜名氏(清政、詮政、満政、持政、政義、政明、頼親、正信、正国、頼広)の10代と、徳川氏(本多信俊、信勝)の2代です。城は、天正11年(1583)、湾を挟んだ対岸の岬に野地城が築城されると、廃城となりました。

歴代城主

今川に忠誠を尽くし、今川とともに滅亡
浜名氏は、源平時代に以仁王を奉じて平家討伐にむけて挙兵し、敗れて討ち死にした源三位頼政の子孫といわれています(三ヶ日町「鵺代」は、奈良時代の「贄代(にえしろ)」が語源といわれ、伊場遺跡の奈良時代木簡にこの地の地名である「贄代郷」の木簡が出土しています)。その後、頼政の子孫の一人が鵺代に下向し、浜名氏と称するようになったとされています。
清政が佐久城を築いた後、二代目の詮政は将軍足利義満の石清水八幡宮参拝に供奉し、弘和元年(1381)正月の義満の白節会出仕にも供奉するなど、将軍近臣の一人として厚い信頼を得ていました。
詮政の後は満政が継ぎ、その後は持政が継ぎました。どちらも将軍から一字を賜ったものと思われ、浜名氏は将軍家の側近として重要な役割を担っていたことが伺えます。
その後、政義が継ぎ、政明の代には戦国の世となり、今川氏に属して三河を転戦。さらに頼親、正信、正国と続いて十代目の頼広で浜名氏は220余年におよぶ歴史に幕を下ろしましたが、頼広の妻は今川氏に最後まで誠忠を尽くした掛川城主・朝比奈泰能の女であり、浜松城主・飯尾乗連は甥にあたるなど、今川氏との因縁が強く、それゆえに今川氏を見限ることができない立場にあったと考えられています。

現在

佐久城は別名浜名城といい、猪鼻湖の東岸の北方向に突き出た半島(標高11.5m)に立地しています。各曲輪の高低差はほとんどなく、平山城の様相を呈しています。現存するのは本曲輪、出曲輪、南曲輪のみで、侍屋敷その他附属施設は残存していません。
本曲輪は南北に60m、東西に30mの楕円形を呈しています。本曲輪虎口は南側中央に設け、虎口両側には土塁を曲輪中程まで配置しています。湖面に面した曲輪西側から北側には土塁は無く、猪鼻湖からの防御は考えていない造りとなっています。本曲輪虎口は、土橋で出曲輪(馬出曲輪ともいわれる)と接続しています。出曲輪は方形で、南側のみにコの字形の高い土塁を配置しています。この曲輪は本曲輪の馬出ではなく、出曲輪としての性格を持つと考えられます。本曲輪と出曲輪との間に幅15m、深10mの横堀があります。また、出曲輪の南側にも幅15m、深10mの横堀があり、その南に曲輪(南曲輪)があります。この曲輪は、みかん畑やリゾート施設の建設などで形状が大きく改変されていますが、南側の一部に横堀の痕跡と見られる部分があり、ここまでを曲輪とすれば、本曲輪に匹敵する広さの曲輪となります。

縄張図

縄張図

佐久城跡概要図(作図:松井一明、「浜名湖北岸の城館跡」『浜松市博物館報』第20号を改変)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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