光明城

こうみょうじょう
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北遠における戦略拠点

  • 名称こうみょうじょう
  • 俗称・別名高明城
  • 所在地浜松市天竜区山東字光明山
  • 様式山城
  • 遺構堀切
  • 築城年享禄年間(1528~1532)
  • 城主・城将天野宮内右衛門景貫 徳川家康 本多忠勝 榊原康政
  • 関連武将朝比奈又太郎 天野宮内右衛門景貫 徳川家康 本多忠勝 榊原康政

二俣城を守り、徳川の北遠侵攻阻止を担った武田方の拠点

光明山の山頂の南西尾根の上に築かれた光明城。享禄年間(1528-32)に北遠支配を目論む今川氏輝が、朝比奈時茂に築かせたとされる山城で、その後、武田方の拠点として機能していました。

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この城の形状は明らかではありませんが、大規模な築城工事があったとは考えにくく、秋葉街道が通る尾根筋上を取り込んで、小屋掛け程度の建物を築いたと見られています。
元亀年間(1570~73)に武田方の城となり、城番が置かれるようになったのをきっかけに、城としての体裁が整えられました。天正元年(1573)8月に、武田勝頼が松井山城守宗恒に本領を安堵するとともに、光明城の在番役を命じた文書が残っていることから、この時点までにはある程度の体裁が整っていたと考えられます。同じ年に武田勝頼は犬井(犬居)・高明(光明)・多々羅(只来)・二俣の各城を巡検しているため、この頃までに武田方の拠点として完成していたと見ることができます。
現在見られる中心曲輪の東西に連なる曲輪状の平坦部は、武田による改修から大きく変わっておらず、規模的な変化も見られません。
天正2年(1574)、徳川家康が二俣城の孤立と天野氏攻略を目的に犬居へと侵攻したところ、不慣れな地形と増水した気田川に巻き込まれ撤兵を余儀なくされ、そこへ突如天野軍が追撃、徳川軍は多数の兵を失いました。この追撃戦には、光明城の兵も加わっているため、武田方の拠点の一つとして機能していたことが分かっています。
ちなみに、この追撃戦で敗走してきた家康を寺に入れ、栗を献上したのが光明山住僧高継でした。空腹の家康は大いに喜んで「行く末めでたき吉兆だ」と言い、これを光明勝栗と名付けました。以後、江戸時代を通して寺から幕府に栗を献上することとなります。これが縁起物として喜ばれる「光明勝栗」の由来です。
光明城は、二俣と犬居、森方面からの街道が山中で交差する交通の要衝であるため、武田方から重要視されていました。加えて、武田方の橋頭堡である二俣城を守り、徳川の北遠侵攻を阻止するという役目も担っていました。
徳川軍にとって光明城を落とすことは、二俣城奪還に不可欠であったため、徳川軍は総攻撃をしかけました。光明城を見下ろす北の鏡山からと、只来・精進渕西口の二手から攻め、城は降伏しました。この攻防戦は、武田勝頼が家臣の山県源四郎に送った書状の日付から、3日から5日程度だったと推定されます。光明城の落城によって二俣城は孤立し、7ヶ月の籠城戦の末に落城。二俣城と光明城は大久保忠世の城となります。信長による武田攻めが行われる天正10年(1582)までは、光明城の戦略的地位は高く、引き続き使用されていましたが、本能寺の変を経て、家康が信濃を含めた五カ国を領有すると、その戦略的地位は著しく減退。その前後に、城としての機能が停止したと考えられます。

成り立ち

光明城は『遠江国風土記伝』等によると、享録年間(1528~1532)に、朝比奈時茂が築城し、又太郎泰方が継いで在城していたとありますが、はっきりしたことはわかっていません。
但し、元亀年間(1570~1573)に、武田氏の属城として城番が置かれていたことは確かで、その頃のことと思われますが、朝比奈又太郎が光明城にいて、犬居城主天野宮内右衛門景貫と戦ったことが『改正三河記』に出ています。
天正3年(1575)6月、徳川家康は、家臣の本多忠勝、榊原康政らに命じて光明城を攻略させました。この時、赤豆坂、梯子坂等で激戦があった(『浜松御在城記』)とされていますが、落城後は二俣城主大久保忠世の手に預けられ、その家臣が天正10年(1582)頃まで在番していました。

現在

光明城は、標高539mの光明山の山頂附近に構築された山城で、現在も一部に腰曲輪、堀切らしき遺構を見ることができます。しかし近世になって、発展した光明寺のために、かつての城郭の遺構は、殆んど改変を受けるか破壊されるかして、往時の明確な遺構があまり残されていません。
なお、周辺には只来城をはじめ、笹岡古城、二俣城、鳥羽山城、高岡城、小川砦、横山砦、犬居城等の城砦群が濃密度に分布し、これら諸城の中にあって、最高所の光明山に占地し、秋葉街道という交通の要衝を抑えた光明城の戦略的位置は極めて高く評価されています。
関連地名としては、横川地内に「殿カイト」「的場」「鍜冶屋カイト」「門前」等が残っています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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