金指近藤氏陣屋

かなさしこんどうしじんや
  • 名称かなさしこんどうしじんや
  • 所在地浜松市北区引佐町金指字陣中
  • 様式その他
  • 関連武将近藤登之助

引佐郡下を知行地とした近藤氏が建てた陣屋

徳川家康遠江進攻の功により、引佐郡下を知行地とした領主近藤氏は、元和元年(1615)、近藤登之助が金指字中畑(元屋敷)に陣屋を建て、後延宝5年(1677)字東山へ移したと言う。これが金指近藤陣屋で、明治5年まで公務を司った。『引佐郡誌』によれば「其の広さは凡百間四方」とあり、外郭や建物の一部があったと記されている。「追手門は始め南方にありしが、中頃改めて東方とせなり」としている。この大手門が浜松市の普済寺門と言われる。
当初の陣屋跡は現在地の東南東600m、国鉄二俣線の南側、引佐高校グランド内にあり、やや小高い地形をなし、元屋敷と呼ばれている地点である。延宝5年以来の陣屋は都田川沖積地を南足下に控へ、井伊谷への径路とも接する台地上に立地している。南側は採土により破壊され、ガケをなしているが、西・北・東の三方は1.5m~2mの土塁が比較的良く残っている。その規模は、東西200m・南北200mの正方形で、「その広さは凡百間四方」にあう。土塁の基底部は幅2~3mである。また土塁の北東外側は幅3~4mの窪地が土塁と平行している。堀跡かもしれない。東外側は急斜面で谷側へ落ちている。陣屋内の標高は20m前後である。陣中は平坦で、果樹園・畑地・竹林・民家等であり、遺構の有無は確認できない。
浜松より祝田をぬけ、浜北市宮口に通じる宮口街道と交叉し、さらに旧鳳来寺道・三信街道・奥山道を結ぶ街道の結節点に位置し、都田川水運の終着地にも近い交通要地に営まれている。また、金指の慶長2年(1597)近藤季用が初めて市を開いたことに由来する市神が今も祭られている。『引佐郡誌』には六斉市であったと記している。五日市場も陣屋東に存在している。農村を背景に商業的拠点を把握した陣屋で、気賀関所とならんで、金指関所も設けられたのである。陣屋の東方約500mの地点である。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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