奥山館

おくやまやたか
  • 名称おくやまやたか
  • 俗称・別名今城
  • 所在地浜松市北区引佐町奥山字城山
  • 様式その他

奥山城の出城の役割を担っていたとも考えられる館

『井伊家礎石伝』によれば、井伊家枝城として、「奥山村之内、中村ト申候所ニテ今城跡在之井伊城ヨリ壱里当西方也」とある。また『遠江国風土記伝』には「城跡の村中に高平に在り、郭外三方溝を構え、郭中の正南に礎石存す。中央の地凡三十歩、東北の隅に井を堀る。巾七尺、深さ知れず。西南の隅に州浜を造り、立石、崎石等七八、今に存す」、「城址ニ社アリ、丑寅ノ方ニ井戸アリ」社には二宮大明神・井伊八幡・稲荷大明神が祀られていたと記されている。また、風土記伝の「昔遠江介井伊介の族人奥山六郎次郎の城なり、子孫世々住す。而して延元元年(1336)京師兵乱の時、後醍醐天皇の御子宗良親王此城に入御ましき」とあるのは、当館か、奥山城の記事かはっきりしない。『古代記』の平図略図によれば、その規模は東西約70m・南北約60m、北東隅と南西隅が切断されているが、ほぼ長方形に近い。中央部やや東南寄りに社と井戸が並んで存在していたようである。小野但馬反逆のため井伊直親公討死の永禄5年(1562)ごろ落城という説がある。
井伊谷から奥山道を西へ約3.5km、右側に奥山神社がある。この南側は神宮寺川の沖積地へ突出した標高50mの小台地がある。今はみかん畑となっているが、土地の人は今城と言っている。居館の遺構は全く残っていないが、平面形は当時と大差ないと思われる。西南隅に自然石が数個放置されているが、風土記伝に言う庭石であったかも知れない。この居館へ登る道は北の奥山道からと、南東の細い小径と二本あったようで、他は急崖に整形されている。
応安4年(1371)、無文禅師入御の時、奥山朝藤の建立した奥山方広寺は、この館の西方約1.5kmの地点にある。また、方広寺北方の山中にある奥山城の出城として当館がつくられたとも言われている。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメントする

このお城を共有・登録する