大平城

おおだいらじょう
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街道の監視と防衛の城

  • 名称おおだいらじょう
  • 俗称・別名大退羅城
  • 所在地浜松市浜北区大平字城山
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀切、竪堀
  • 築城年暦応2年(1339)

自然地形を利用した、手のこんだ防禦施設を持つ城郭

現在の浜松市浜北区北部に連なる丘陵地のうち、都田川の支流である灰木川(はいのきがわ)中流域の北側の丘陵上にある大平城。足下を通る、二俣と浜名湖北岸を結ぶ主要街道の監視を目的としていたと考えられています。

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大平城の名が見える最も古い記録は、大福寺に残されている『瑠璃山年録残編裏書』などに記載された古記録で、これによると暦応2年(1339)に井伊道政らが入城した三岳城の支城とされています。そして、翌年、北朝方の手によって三岳城が落城すると、井伊道政は南朝方の宗良親王とともに大平城に立て籠もるも、同年には北朝方の攻撃によって落城したと伝えられています。
遠江の南北朝期の山城は、山岳寺院を利用する例が知られ、大平城も本曲輪を中心に13世紀から16世紀の陶磁器が採集されていて、そのなかには中国産のものが含まれているため、本曲輪の位置に中世の山岳寺院の施設があり、それをそのまま利用して山城としたと考えられています。
その立地から、大平城は浜名湖北岸から二俣に至る街道の監視と、防衛を目的としていたことは明らかで、三岳城などの浜名湖北岸地域の山城群とともに防衛ネットワークを構成していたものと見られています。
なお、現在見ることのできる大平城は、曲輪と堀の規模から、永禄年間末期から天正年間初頭(1569-1575)頃に築城されたと推察されます。三岳城との堀切構造の共通性から、元亀年間に始まった武田信玄の遠江侵攻戦にあたって、徳川家康が改修したと思われます。

成り立ち

城の創築年代は明確ではありませんが、諸種の史料を突き合わせてみると、暦応2年(1339)から翌3年にかけて井伊氏等南朝方が守備し、同年2月に三岳城が失陥してからは、宗良親王が8月まで在城していたと推察されます。
しかし、同年8月、『肥後詫磨文書』や『瑠璃山年録残篇』等によると大平城は、北朝方の仁木義良らの夜襲に遭い、抗戦空しく落城したことが明らかにされています。
なおその際、火をかけられて落城したということであり、室町時代以降の史料に同城の名が再び登場してこないところから考えると、同城は落城と同時に廃城となったものと思われます。

現在

大平城は、大平地区の小字城山に位置し、東方より西方へ半島状に突出した山魂の尾根上(最高所標高102m)を削平して構築した山城です。
縄張は、およそ東西が600m、南北が平均300m程で、変化に富んだ自然地形を最大限に利用している所に特徴があります。すなわち、城山の南麓を流れる灰木川を天然の外堀とすると共に、城の北側と西側を断崖で囲み、且つ搦手の東方尾根上は深い堀切を二重に設けて切断するという配慮をしています。その上、本丸を中心に四方に派生する尾根にはそれぞれ小曲輪や帯曲輪を構築し、更に地形によっては堀切を設けるなど、手のこんだ防禦施設に特色のある城郭となっています。
本城である井伊谷城は、大平城の南西約8kmの位置にあって、城の背後(北方)の大平部落を越えて都田川に出れば、川沿いにも行けるし、尾根伝いでも出られます。一方、三岳城は更に近く、距離も5km程で、大平城から眺望がきき、狼火等による連絡も可能です。
なお大平城周辺には関連地名として「城山」「馬場下」「大井戸」「一の木戸」その他が残っています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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