犬居城

いぬいじょう
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中世の代表的な山城

  • 名称いぬいじょう
  • 俗称・別名城山、乾城、鐘掛城
  • 所在地浜松市天竜区春野町堀之内
  • 様式山城
  • 遺構本曲輪、二の曲輪、三の曲輪(馬出曲輪)、物見曲輪、井戸曲輪、土塁、堀切、横堀、竪堀、土橋など
  • 築城年南北朝時代?元亀年間頃改修
  • 城主・城将天野氏
  • 関連武将天野藤秀 徳川家康 武田信玄
  • 文化財指定静岡県指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

時代に翻弄された天野氏の居城

北遠地域の国人領主であった天野氏により、峻険な山に築かれた犬居城。今川氏に属していたとき、その支城に位置づけられていましたが、途中、武田氏に従ったため、武田流に改修されています。中世における代表的な山城といえます。

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犬居城の歴史は古く、天野氏が遠江北部の支配を始めた鎌倉時代にまで遡ります。天野氏は、源頼朝の懐刀として活躍した天野遠景を祖とする鎌倉幕府の御家人で、承久の乱(1221)の後、山香荘(旧・春野町周辺域)の地頭となり、鐘打山(標高290m)に犬居城を築き居城としました。戦国時代には今川氏の有力家臣として北遠江一円を支配下におき、次第に勢力を拡大し、領国支配を固めていきました。 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏による遠江支配は揺らぎはじめ、天野氏は遠江を手中に収めた徳川家康に従属。ところが武田氏の勢力が遠江に迫ってくと、武田領に接する天野氏は徳川氏から離反し、武田氏に従うことを決めました。武田氏の配下となったことで犬居城は、大幅な改修を受けたため、空堀・横堀といった武田流築城法の特徴が認められます。 天正2年(1574)、裏切られたことに激怒した家康に包囲されたものの、地の利を活かしこれを退けました。しかし、長篠・設楽原の戦で武田軍が大敗した翌天正4年(1576)、再び徳川軍の猛攻を受けると、ついに犬居城は落城。廃城となり、300年におよんだ天野氏による北遠江支配は終焉を迎えたのです。

北遠一帯に張り巡らされた支城網
天野氏が今川氏に属していたとき、天野氏の本城である犬居城は、今川氏の支城に位置づけられていました。今川氏は、領国を広げていく過程で、天野氏のように家臣として従属してきた国人領主に対し、その土地を安堵し居城をそのままにする政策をとり、その結果、今川領内には犬居城のような支城が数多く存在し、言わばネットワークが構築されていました。 これに倣ったかどうかは定かではありませんが、天野氏は北遠地域における支配を強固にするため、犬居城を中心に、樽山城や篠ヶ嶺城、勝坂砦などたくさんの城や砦を築き、独自の支城網を構築したとされています。

成り立ち

犬居城は、承久の乱後、山香荘に地頭として入部し、国人領主に成長した天野氏の本城です。天野氏は山香荘の犬居・大峯・平山三カ村の地頭職をあしがかりに、その後も荘園を押領し、南北朝期頃には、犬居山中(東手)と西手の一部をその支配下に入れたと考えられます。築城時期は南北朝期とも言われていますが明らかではありません。南北朝期には今川氏に従って北朝方として行動し、戦国時代斯波氏が守護大名の時期は、独自性を保ち、戦国時代後半には今川氏の有力家臣として、今川軍団の一翼を担っています。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が敗死すると一時徳川に付きましたが、北遠地方の奥山氏とともに武田氏の配下となっていきました。武田氏配下の元亀年間(1570~73)には対徳川戦に備えて城の大規模改修を行っています。元亀3年(1572)の武田信玄の遠江侵攻では、当主天野藤秀が先導役を務めたことは良く知られています。天正2年(1574)と長篠・設楽原の戦い後の天正4年(1576)に、徳川家康による天野氏攻めで敗れ、廃城となりました。

現在

犬居城跡は春野町堀之内小字犬居の鐘打山(標高290m)にあります。城に登るルートは東海遊歩道として整備されており、初めて訪れる人でも安心です。登り口から急坂を15分程で、尾根の東側にある大手口に到着します。左側に横堀や土塁に囲まれた馬出曲輪、右側に竪堀と低い土塁からなる東曲輪が見え、城跡についたことが実感できます。犬居城の曲輪は、大手口の西側に延びる尾根上に主要曲輪が築かれています。大手口から最も離れた尾根西端が最高所で、物見曲輪跡です。ここからは気田川流域や直下を通過する秋葉街道を見渡すことができ、また、北斜面や西斜面の監視も可能です。この物見曲輪から少し下った西側尾根に幅約10mの堀切があり、西側の防御を固めています。これより西側には城遺構は存在しません。物見曲輪から東の尾根に沿って、複数の曲輪が築かれています。犬居城の曲輪の配置は、山城でよく見られる尾根上を階段式に切り崩し、曲輪を築く方法ではなく、尾根から北側斜面に向けて、尾根と平行するように、東西に細長い本曲輪、それに付随する二の曲輪、腰曲輪を、三段にわたり配置している点に特徴があります。本曲輪には城防御の正面に当たる南側に東西方向の土塁があり、北側下部の腰曲輪との境に横堀が設けられています。また、本曲輪の東南隅には桝形虎口があり、その先は土橋で馬出曲輪に繋がっています。馬出曲輪は、前面を取り囲むようにU字状の空堀と土塁があり、北西部に外部との出入り口となる土橋が見られます。この城は、武田流築城法が随所に見られることから、天野氏が対徳川戦に備えて、元亀年間(1570-1573)頃に武田氏の支援を受けて大改修が行われたと考えられています。

縄張図

縄張図

犬居城跡概要図(作図:関口宏行)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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