井伊谷城

いいのやじょう
  • 名称いいのやじょう
  • 俗称・別名今城、今城山
  • 所在地浜松市北区引佐町井伊谷字城山
  • 様式山城

浜名湖東北部一帯に勢力を振るった井伊氏の居城

浜名湖東北部一帯に勢力をふるった井伊氏の居城である。『井伊伝記』では「寛弘7年井伊氏の祖、藤原共資(遠江国司)男共保此地を保む」とあり、其の孫遠江介の建武年間に南朝に仕え、宗良親王を擁し遠江地方の南朝の拠点となった。しかし、1339年~40年足利尊氏方の高師泰・仁木義長らにより、三岳城・井伊谷城をはじめ南朝側の諸城・諸砦は落城した。その後、井伊氏は今川氏に服属、戦国期は国人領主として勢力をもっていた。城の形体については礎石伝に詳記されている。それを引用すると次の如くである。「井伊故城地は井伊神社中に相成申候、凡本丸内南方壱丁余(約100m)は堀之中より土手之上迄壱丈位(3.3m)も在之候。大手御門之場所南方真中より少し東へ寄申候。西方之南へ寄申候而御所之丸へ通申候門在之候」、「西方に堀在之候…(略)…北方、東方は堀之形無御座候」、「井伊城本丸と申候所凡北より南の段下迄弐町半余(約250m)、又東西壱町半余(約150m)御座候。…(略)…御座之丸と申候は山の絶頂に御座候。大手門は巽口に在之候。搦手御門は西方の南へ寄、坤方口に御座候、北方に岩御座候。是を陵石と称し、此出丸に宗良親王入御坐々ける」。また、『井伊谷古図』にも上記の如き配置が見える。
以上のことから、標高114mの城山とその山麓一帯が井伊氏の平時の居館であったが、戦時には東方約3kmの山城、三岳城を本拠とした。また、井伊氏以後、この地を支配した近藤氏陣屋もこの一角に存在した。
井伊谷の集落の北側、現在の引佐町役場に隣接した北方に、こんもりと全山松がおおった城山があり、公園となっている。急斜面を南から約20分登ると大手門跡に出る。山頂は約40×50mの広さで、周囲を「高さ約3m、幅5mの土塁がめぐっていた」(昭和9年沼館愛三氏調査)と言われるが、今も南縁から東縁にかけて、その面影をとどめている。特に大手門付近の保存がよい。西側のやや南寄には搦手門跡がある。北側は遺構の確認が出来ないが、幅1~2mの窪地があり、内濠があったのかも知れない。山頂の北側半分は3~4m小高く、御座丸と呼ばれる。この東端に「井ノ宮石陵」とよぶ高さ80cmの墓碑のような自然石が石組の中に立っている。山頂南半分は平場である。山頂からの展望はすばらしく、東は井伊谷を越えて三岳城が望まれ、そこから南へ転ずると、上野・谷津・今城の砦群がのる丘陵が開らけ、さらに遠州平野から遠州灘が望まれる。北望は奥山方面が足下である。本丸・二ノ丸・三ノ丸は南麓から東麓にあったと考えられるが、今は住友セメント工場社宅や民家で破壊され、その遺構は明かでない。
井伊共保以来、直政が今川氏の難をさけ三河国鳳来寺に逃れるまで、約540年余の井伊氏の居城であった。そのため、南北朝期の井伊氏をめぐる史跡が付近に多い。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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