藤丸館

ふじまるやかた
  • 名称ふじまるやかた
  • 俗称・別名三光寺原
  • 所在地菊川市東横地字殿ヶ谷
  • 様式その他

横地城落城後、挽回を計った横地氏最後の若君の館跡

『今川家略記』によれば、「文明7年春、横地、勝間田謀叛し、義忠兵を発してこれを攻めて城陥る。」とあり、又、町内杉山家系図の初頭に次の事が書かれてある。
横地前郡主名
能美主馬助伊隆子孫鎌倉
同名兵庫助同名修理太輔兵火の為親子3人焼死、両人名乗不詳子孫不分明
とある。いい伝えによると、横地落城の後、その遺児藤丸は、この地に住んで勢力の挽回を計ったといい、横地氏最後の若君の館跡という。
藤谷神社蔵の横地系図によれば、文明7~8年討死のものなく、秀国が永正3年汐見坂に討死とあって次の元国永正2年生とあり、元国の事を指すか?伝説とも事跡ともいえない。
開墾によって遺構は消滅、東に一段高く接する武ヱ原との間の谷に水の手がある。南斜面に無数の宝篋印塔、五輪塔が埋没している模様で、横地一族の墓地という。麓に県下最大という宝篋印塔が祭られている。伝えによると3カ所にあった氏族の菩提寺を1カ所に集め3カ寺より三光寺と名付けた寺が南麓にあったが、茶工場となる(敷地の西から南にわずかに土塁跡がのこっている。)この原の前面に堀川が流れるが、近年寺前の川中から抹茶のヒキ臼(室町期)が発見された。集落はこの藤丸館、武ヱ原を中心として発達し、南の小笠町に通ずる古道が通り、北側を金谷に通ずる古道がある。茶屋前、五郎兵ヱ屋敷、矢城海戸の地名が周囲に残る。南向いの丘陵に寺跡延命段、法印段があって墓石が残る。北方下の谷田(同じく殿ケ谷)に杭、柱等を出土。さらにこの北裏山尾根に堀切2カ所、渥美ノ谷にも段構があり、勝田谷の北尾根も堀切を設けている。(この東に矢師ケ谷の地名が残る)

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメントする

このお城を共有・登録する