横地城

よこちじょう
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遠江きっての古名族・横地氏の本城

  • 名称よこちじょう
  • 俗称・別名金寿城、横地太郎
  • 所在地菊川市東横地
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀切、空堀
  • 築城年15世紀中頃、室町時代
  • 城主・城将横地氏
  • 関連武将斯波義廉 今川義忠
  • 文化財指定国指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

斯波氏と今川氏との対立のなか落城

中世の遠江を代表する名族であった横地氏によって築かれた横地城。横地氏はその出自に諸説あるものの、鎌倉期には御家人として、室町期には奉公衆として将軍のそばに仕えていたことが「吾妻鏡」等の文献に記されています。横地城を含む城下遺跡群は「横地氏城館遺跡群」として国指定史跡となっています。

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横地氏の本拠は、奥横地川沿いの谷と推定されており、居館跡である殿ケ谷遺跡や伊平遺跡、集落域である横地城下遺跡群などの様相が発掘調査によって明らかにされています。横地城は、この奥横地の谷の最奥となる東方丘陵に築城され、年代ははっきりと分かりませんが、15世紀の中頃に築かれたと見られています。
文明7年(1475)、遠江進出を狙う駿河守護の今川義忠と遠江守護の斯波義廉(しば・よしかど)との対立が激化するなか、斯波氏側についた横地氏は、同族の勝間田氏とともに挙兵し、今川氏に対抗しました。しかし、翌文明8年(1476)、遠江に侵攻してきた義忠の猛攻を受け、横地城は勝間田城とともに落城しました。

成り立ち

横地氏は、保元の乱の際、源義朝に従った有力武士であり、源平の内乱期には頼朝に従い、鎌倉幕府成立後は有力御家人として鎌倉を中心に活動していたことが「吾妻鏡」に度々登場しています。南北朝期には足利に属して菊川流域一帯を領地とし、後に室町将軍家の奉公衆として京都を中心に活動していました。15世紀中頃から活動拠点を東遠江の横地に移しましたが、15世紀後半になると遠江に勢力を伸ばしてきた今川氏の侵攻を受け、文明8年(1476)に滅ぼされました。 従来の通説によると、藤谷神社所蔵の「横地系図」の記述を根拠に源姓とされてきましたが、「『寛永諸家系図伝』横地譜」および「『寛政重修諸家譜』横地系図」、柳川古文書館所蔵の「系図略(譜謀 横地)」等の史料に藤原姓横地氏が散見されることや、東海地方の多くの在地領主には藤原姓が多く、なかでも駿河・遠江両国において藤原南家入江氏流の一族が多いとする傾向から、藤原姓であったと考えられています。
横地氏は、「吾妻鏡」「天野文書」や古文書および記録に記されている実名を見ると、長重・長直・秀長・長連など、「長」を通字とする一族であったことが確認できます。隣接する勝田氏も、史料から成長・佐長・陸長・定長など通字に「長」が使われていることが分かり、両氏は同族であったと考えられます。
横地氏の所領は、名字の地であった奥横地と段横地を含む、東横地から西横地にかけての中心所領に加え、「天野文書」や戦国期の今川義元・今川氏貞の安堵状などの断片史料から、遠江国内の散在領所の預け置きから成り立っていたと推察されます。
出典:「菊川城館遺跡群保存管理計画報告書」

現在

横地城は東西400m、南北450mにわたる広大な城です。いわゆる「一城別郭」の様相を呈し、尾根の頂部を巧みに利用し、「東の城」「西の城」「中の城」と呼ばれる3つの区域を配置しています。
「東の城」は城内最高所に位置し、横地城の主城とされています。南端に土塁を備えた長辺約30m、短辺約10mの主曲輪を中心に、比較的小規模の曲輪を階段状に配しています。
「西の城」は「東の城」のある尾根に直交する位置関係となり、西方に対する防御を担っていたと考えられます。主曲輪は長さ約40m、幅約5mから15mの不整形な平場となっていて、現在は横地神社が鎮座しています。主曲輪の南には城内最大となる幅約6mの大堀切と、その南側には基底部の幅約5mを測る土塁が設けられ、尾根筋からの進入を阻んでいます。同じく北側の細尾根上には階段状の小曲輪が無数に配され、北および西方からの侵入に備えています。「西の城」の南側には千畳敷と呼ばれる長さ約90m、最大幅約30mの不整形の平場がありますが、その形状や発掘調査の結果から、後世の改変による可能性も指摘されています。その下には大手曲輪と思われる空間があり、大手口の存在が想定されています。
「中の城」は「東の城」と「西の城」を繋ぐ低位尾根上にあり、南方面に対する出曲輪的な存在であったと見られます。尾根の突端を利用した主曲輪は南側に低位の土塁を巡らし、その下段には堀底幅約1mの小規模な横堀が巡っています。城内の施設としては他に例を見ない遺構であり、横堀遺構の初源的なものとして注目されています。
これらの遺構の特徴としては、比較的小規模な曲輪と堀切を組み合わせ、それを自然地形に則した形で配置していること、また虎口の構造も複雑でないことが挙げられます。そのため横地城は、大規模な土木工事を伴う戦国期山城に先行する山城と考えられます。室町期まで遡る城郭は静岡県内でも稀有な存在であり、その残存状況の良さから、横地城を含む城下遺跡群は「横地氏城館遺跡群」として国指定史跡となっています。
登城口はいくつかあり、最短ルートは城下南側の駐車場脇から大手曲輪を経て千畳敷に至るルートです。しかし、お勧めは城の西方、奥横地の谷の入口付近に所在する横地氏の菩提寺であった三光寺跡裏から尾根筋を伝うルート。横地氏の居館とされる「殿ヶ谷遺跡」の手前を通り、横地一族の墓と伝えられる石塔群を見つつ整備された農道をたどり、しばらく進むと横地最後の若君の館とされる「藤丸館」、また遠江守護斯波義廉を迎えたと伝承される「武衛原館(ぶえばらやかた)」などの遺構が見られ、さらに東へ進むと「西の城」にたどり着きます。ただし、かなりの距離となるため、時間と体力に余裕のある方にお勧めします。
出典:「静岡の山城ベスト50」

縄張図

縄張図

横地城跡概要図(『横地城跡総合調査報告書』より)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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