富田城

とみたじょう
  • 名称とみたじょう
  • 俗称・別名長行山城、落合城、城山、長行山古城
  • 所在地菊川市東富田字段前
  • 様式山城

国人クラスが築き、戦国末には徳川氏が利用したと推定される山城

近年富田城と呼ばれているが、土地では城山、長行山、弘法山、落合城などといわれている。創築年代は不明であるが、国人クラスのものと考えられる。『東鑑』に河村荘本主三郎高政が愁訴をもって北条時政に領地を寄進したとあるが、関係があるか?。『丹羽堀内家系図』(藤沢市史所収)に、小笠原氏の裔で遠江国城飼郡堀之内に住し堀内氏を名乗る正行という人物があり、孫の行親は堀内城に住すという。正行の父の長行がある。当山城の南面の小字を長行平という。伝承によると長行という殿が戦いに敗けて、姫が泣く泣く落ちのびたのでナゲキビラという。段構等遺構があったが、新幹線工事で破壊された。(この平の西端に近く、五輪田という小地名がある。)
本主三郎高政が河村荘を寄進した事件より、約200年のちの文献『宣胤記』によると「昔から海住山大納言家領である当荘は、引続いて武家に知行させよ」とあり、このあたりに創築の年代があろうか?
戦国末、徳川氏によって諏訪原城に対して、再度利用されたと推定される。(「高天神記」参照)
城は北東より南西に流れる菊川に、北から富田川が流れ込む合流点の西側に位置する。菊川平野に移行し始める地点で、沖積地は少なく、河成段丘が多い。
海抜75.9m、比高43m、山林、茶畑、ゴルフ場敷地等で、一の郭は変形五角形で東西約50m、南北45m、周囲に土塁が巡り、西北に2カ所、狭間状に幅1m程の通路があったというが、開墾で崩され、周囲が僅かに高まりを残すのみ。この狭間状の土塁切れの西下が裏門と伝えられている。主郭の北側に2m程降って二段の腰郭があり、土蔵(穀倉)があったという。主郭より四方にのびる尾根は、それぞれ堀切と土塁を施してあり、北方に向う尾根に3カ所、東南に向う尾根2カ所、南方の堀は幅3m、西方は幅4m~6mの裏木戸の切割で、この西は西郭となる。西郭は南下に空堀(旧道)と土塁を設け、さらに郭上の南から西にかけて、土塁を廻し、西方堀切って尾根道に至る。西郭上に石弾の集積が発見され、又、土塁上に2m間隔に、深さ1m程打込んだ柵杭の跡が発見されたが、ゴルフ場建設で消滅した。
二の郭は40m×30mの方形で、南東部の弘法堂が1m程高段となり、この東南下に腰郭がある。腰郭の両脇から突出た尾根にそれぞれ段構(2・3段)てあったが、新幹線工事により消滅した。二の郭の南西に幅10m程の堀割状の凹地が残っているが(現在茶畑)、馬小屋があったと伝えている。この西に小高い尾根を出丸といい、最西端に僅かに堀切が残る。水の手は東側を除いた各谷に、1~2カ所程が残る(計5カ所)。城の北の谷を「地の神沢」、「馬かくし」といい、東に延びた丘陵の端を「陣が堂」という。さらに、東麓の水田地帯を殿(トン)の(ノ)前(マエ)といい、又、北方の蔵(ゾウ)田(ゼ)、西うら、西京、池田やしき、うら垣戸、みねがいと、堀之内、源内かいと、堀ばた、仁の田、金いば等の地名が残る。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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