棚草本城山

たなくさほんじょうやま
  • 名称たなくさほんじょうやま
  • 所在地菊川市棚草字殿ヶ谷
  • 様式平山城

郭状の段付が残る平山城

棚草殿ケ谷にあって「本(ホン)城(ジョウ)さん」という。田を隔てて南に城山、北の田を隔てて平城がある。城山・平城共に遺構が明確でないが、本城は郭状の段付が残る。南麓に長谷川屋敷、兵助屋敷跡があり、丘陵の西のはずれの田を花海戸という(端の意か?)。丘陵の東が海抜43.9mで最も高く、本城様を祭る。明治30年、陶筒を出すと云うから経塚であったと考えられる。雲林寺の裏手に「今川氏宮」という小祠があり、今川氏真と朝比奈孫十郎を祭る。
永禄9年、今川氏真から地頭朝比奈孫十郎に宛てた朱印状によると、棚草用水(宇津梨山用水)は、「前例の如く地頭にまかせる」とあり、何びとかの手によってこれより以前に大規模な水利事業が行われていた事が判明する。又、従前は、国衙領であった棚草が次第に荘園化していくあたりに、横地氏の勢力の介在があった(『熊野速玉大社文書』所収「遠江国衙領郷保目録」)(『静岡県史料』第4輯「平田寺文書」)。又、天文中、紅林次郎左ヱ門、同右京亮が棚草の名職にあって、年貢を未納し数年間に及んだので追放され、新たに百姓職を村松、長谷川、高林に命じている(『静岡県史料』所収「長谷川文書」)。南麓に屋敷跡がある。
尚、頂上の本城さんは、本主、本所の意で、本来の領主を祭ったものであろう。又、宇津梨用水については、貞観年間に遠江国司、佐藤右近太夫満好が、同族の左近太夫満算に春日社を勧請させ、神田を60町歩寄進し、宇津梨山より棚草に用水路を造るという(佐藤家文書)。「春日」の小字名が古城跡と伝え、城山の南に当る(小笠町誌)。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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