黒田代官屋敷

くろだだいかんやしき
  • 黒田代官屋敷
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自然堤防上に構えられた方形の居館

  • 名称くろだだいかんやしき
  • 所在地菊川市下平川字西側
  • 様式その他
  • 遺構長屋門、主屋、土蔵、土塁、堀
  • 築城年永禄年間(1558~1570)
  • 関連武将黒田義則
  • 文化財指定国重要文化財

高天神城城兵の後、当地の代官となった黒田氏の屋敷

牧之原台地から流れる菊川や牛渕川とその支流がつくった沖積地の自然堤防上に構えられた黒田代官屋敷。東西約100m、南北約100mの方形館構造で、周囲には水濠が巡らされていました。

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黒田代官屋敷は、黒田氏の居館が旗本・本多助久家の代官所となったものです。黒田氏は、源氏の流れを汲み、足利下野守義次の代に越前黒田荘に下向、荘名を名字としましたが、鎌倉時代末に紀伊に移ったと伝えられています。三代義理は、式部少輔を称し遠江城飼郡を領し、その子義重が下平川村を領したといわれています。八代九郎太輔義則が永禄年間(1558~70)に現在地に屋敷を構えました。義則は当初、今川義元に属していましたが、永禄12年(1569)に今川氏実が掛川を去り、北条氏康が遠江に進出すると、周辺の土豪らとともに徳川家康に属し、小笠原清継の組付となりました。
元亀2年(1571)に武田信玄が遠江に侵攻すると、義則とその子義得は高天神城の守備につきました。しかし、天正2年(1574)に武田勝頼によって城が攻め落とされると、義則・義得父子は平川村へ戻り帰農しました。その後、いつ頃からかは定かではありませんが、黒田家は下平川村・嶺田村・三沢村の領主である旗本本多日向守家の代官となりました。
黒田家屋敷は江戸時代の代官屋敷の建築様式を伝える貴重な文化財であることから、昭和48年(1973)に長屋門と主屋が、平成5年(1993)に土蔵と米蔵が国の重要文化財に指定されています。

成り立ち

天正2年(1574)に武田勢が、今川方の高天神城を攻め、城主小笠原氏が和睦して城を明渡し、城兵は武田・今川と希望の所に帰属しました。この時、黒田義則、義得は郷里平川村に帰農し、その後、徳川の天下となったことで旗本本多日向守の代官職となり、嶺田、三沢、下平川、4,000石を支配していました。
黒田家の祖は、福井県黒田荘を領した下野守義次で、以後紀州にも住んでいましたが、8代目の義則より居住し、現在21代目です。面積は約7,000m²。沖積平野の中にあり、水路、舟便、用水管理のためと考えられます。屋敷の環濠の東南の一部が土橋状に切れて、ここから長屋門が南向に建っています。

現在

菊川市西方沢田の山内農夫男宅(山内本家)の長屋門が、黒田家の長屋門と伝えられています。また、山内家の家屋が西方竜雲寺の裡として移築されていましたが、現在新築されてなくなっています。山内家は鎌倉期より始まり、屋敷は二重堀の(現在田となる)旧家です。
代官屋敷に面した南側には黒田家代官屋敷資料館があり、黒田家に係わる約200点におよぶ所蔵品が展示されています。長屋門の外観は見学できますが、主屋は住居として使用されているため、普段は見学できません。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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