横須賀城

よこすかじょう
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遠江東部の拠点の城

  • 名称よこすかじょう
  • 俗称・別名敵応山、松尾城
  • 所在地掛川市横須賀
  • 様式平山城
  • 遺構曲輪、土塁、水堀、石垣、桝形虎口
  • 築城年天正6~8年(1578~1580)頃、もしくは2~4年(1574~1576)頃
  • 城主・城将大須賀氏 井上氏 本多氏 西尾氏
  • 関連武将徳川家康 大須賀五郎左衛門康高
  • 文化財指定国指定史跡
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高天神城奪還のために築かれた陣城

山城と平城の特徴を併せ持ち、二重の城郭様式を持っていたと言われる横須賀城は、武田方に奪われた高天神城奪還を目的に築かれました。その後、落城した高天神城はすべて焼き払われ、代わって横須賀城が遠江東部における拠点となり、明治の廃藩置県まで続きました。

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永禄3年(1560)、桶狭間の戦いによって今川義元が討たれると、今川勢力は衰退し、旧領の駿河・遠江は武田氏と徳川氏の草刈り場と化し、両勢力は遠江の各地で激しい攻防を繰り返していました。
横須賀城の位置する東遠江は、両勢力の境界地帯にあたります。徳川方の重要拠点として、長年にわたる武田方の攻撃に耐えていた高天神城が、天正2年(1574)、武田勝頼の猛攻を受け、奪取されてしまいました。これを奪還するための拠点として、徳川家康の命を受けた大須賀康高によって築かれたのが、横須賀城です。
築城時期については諸説あり、天正6年(1578)~天正8年(1580)頃、高天神城落城直後の天正2年(1574)~天正4年(1576)頃といわれています。天正9年(1581)徳川方の猛攻により高天神城が落城。家康は奪還した高天神城を焼き払い廃城とし、代わって地勢的に有利な横須賀城を遠江東南部支配の拠点としました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による天下統一後、徳川家康が関東へ移封されると横須賀城には豊臣配下の渡瀬繁詮(わたせ・しげあき)が入城、織豊城郭として整備、拡張を行いました。
以降、横須賀城は西尾家八代の支配で明治を迎えました。これにより戦国の城から近世城郭へと20代290年にわたって存続した横須賀城は廃城。建物などは明治6年(1873)にすべて解体されました。

成り立ち

『横須賀根元歴代明鑑』によると「遠州城東郡横須賀の城は、天正6戌年(1578)3月11日より馬伏塚の城を引いて御普請初り、御城出来・・・」とあり、また『高天神記』には「天正6寅年春横須賀に御城取有り同国馬伏塚の城主大須賀五郎左衛門康高に命じ御自身御縄張11日より始まり・・・」とあります。本城は築城から明治維新までの約290年、大須賀康高より西尾忠篤の明治元年(1868)房州花房に移るまで20代の城主の交代がみられます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

廃藩置県以後、明治6年(1873)頃より城郭の取壊が行われ、城郭の半分以上が消滅していますが、天守台、本丸、北の丸櫓郭等は原形を留めています。堀は三ノ丸から北堀へ鈎型の大空堀が現存しています。東大手の西側に三日月堀があり、南堀から不開門にかけ一部玉石塁がみられます。他は宅地及び農地造成により消滅しています。
本城は標高26.0mの北の丸櫓郭を主軸としています。この地は、宝永年代までは入江であり、横須賀港として栄えましたが、安政地震以後その機能は消滅しました。天正6年(1578)に高天神城対抗の策源地として軍事上要害の城として構築、以後天正9年(1581)に落城した高天神城を捨て、本城を地域支配の基幹的城域と城下町整備へとなしとげたのが、2代城主松平出羽守忠政です。
本城構築前は清ケ谷城、小谷田城と同期の松尾城があり、この古い城を大須賀康高が改築し使用したとみられます。以後数代に渡る城主により順次平城的城郭へ変更したため、新旧を混えた縄張となっています。附近の地名は比較的新しいもので、外堀、城内、前堀、縄手下等の地名があります。
不開門北側に撰要寺があり、大須賀氏、本多氏、小笠原氏等の墓塔群が存在しています。墓塔群の研究においても注目されるものがあります。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

高天神城跡概要図(『史跡高天神城跡基本整備計画策定報告書』改変)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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