中村城山

なかむらじょうやま
  • 名称なかむらじょうやま
  • 所在地掛川市中
  • 様式山城
  • 関連武将徳川家康

天正7年、徳川家康が高天神城包囲のために築いた6砦の1つ

本砦は天正7年徳川家康が高天神城包囲のため築いた6砦の一つと言われている。
高天神城東南約2.7kmにあり、帝釈山砦と一続きの尾根先端部に位置し、田中城山と満勝寺吉長山城山とに別れ、背部33.5mの高塚山の主櫓台を中心に構築され、山頂に櫓台、山腹山麓にかけて波状階段式曲輪で構築、特に山腹及び櫓台先端突部は三角式、折屏風式の突形段曲輪を設け、東南方向に防築されている。主要鞍部に切堀、土塁を設けてあり、尾根全体に対して幅7.0m程度の武者走を併設されている。元々、田中城山と吉長山城山とは高塚山主櫓より二俣に分かれ、一体の独立した尾根である。陣館は高塚神社南側屋敷内にあり、その他、田中城山の東面の谷懐中腹及び吉長山北側谷懐間に配備され、おおよそ300㎡程度を規準としている。現在の高塚部落殿ノ前はかつて入江であり、田中城山の南面及びこの殿ノ前にかけ水堀を設け要害の城塞となっている。
かつての国安川は西ケ崎と城ノ前より北側に迂回、田中城山の懐に食入るように入り、大きく蛇行して獅子ケ鼻へと連なっており、宝永年代まで舟の航路(漁船等)として利用されたという。また殿ノ前も同様入江として利用、現在鍵形に舟溜跡が残る。本地はかって斯波氏の家臣雑賀氏が中村地頭として支配の拠点とした館跡で、水運を利用した良港で小笠平野の年貢米等を収納舟積した所とみる。今川及び武田等はこの港から上陸、川久保添陣街道を通り畑ケ谷陣屋より大手へと進んだ。又、兵糧運搬路として活用したと思われる。
陣街道、兵引坂、矢塚、矢羽根、城ノ堀、城山等の地名はこの城と関連するが、斯波地頭雑賀氏関係として問注、公文、政所、馬場崎、兼情、式部、殿ノ前等の地名が残る。本砦も南及び東面防禦城であり、縄張築城法も高天神城と同時期に構築、高天神城支城群の一つである。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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