高藤城

たかふじじょう
  • 名称たかふじじょう
  • 俗称・別名殿谷城、高藤古城
  • 所在地掛川市本郷
  • 様式山城

殿谷の山頂一帯に築造された、原野谷川流域一帯を支配した原氏の中心的城郭

掛川市殿谷の標高140mの山頂一帯に築造されており、中世城郭としての遺構をほゞ完全に残している。『掛川誌稿』には「高藤古城、家代、細谷、遊家、本郷四村の境を高藤と云、城の段とも云う。櫓台、切通などあり、何人の古城なるや詳ならず」とみえる。
創築については『東寺文書』元徳3年(1331)10月9日付鎌倉幕府裁許状に8代忠益が細谷郷の地頭職であったこと、これ以前の永仁3年(1295)9月9日付東寺文書で原兼泰が地頭職であったことがみえる。南北朝の争乱以後守護層は勢力の維持と経済基盤の確保を計るため城郭の整備拡充がなされた。元亀2年(1571)武田信玄の遠州侵略に際し、原氏は武田氏に属したが、元亀4年徳川氏と戦い落城した。
城は主郭のある標高140mを最頂部として東西650m、南北500mの規模で、細長い尾根上に他の三つの尾根上にいくつもの曲輪が配置されている。主尾根は堀切によって分断され、北側・東側の曲輪は主郭との落差が大きく、地形を利用した曲輪で独立した縄張りである。西側は緩斜面のため主郭と西曲輪の間に大堀切で地形的弱点を補っている。
主郭は上段・中段・下段の曲輪に分れ、土塁が三方に囲らされている。虎口は2カ所で、東虎口は木戸跡とみられる桝形が残り、三ノ曲輪と搦手口に通じている。西虎口は大堀切を経て二ノ曲輪、三ノ曲輪に通じている。
二ノ曲輪は主郭の西南の斜面に築造され、井戸が造られており重要な曲輪である。三ノ曲輪、西曲輪、搦手に通じている。畑地として利用され変形している。
三ノ曲輪は尾根は削平して三段に築造されている。虎口は上段の東南端で、二条の土塁状遺構を通って二ノ曲輪に通じている。
大手口、西曲輪は主郭の西尾根にある。北出丸は主郭の北東側に造られており、北側の防備と物見的性格をもっている。
東曲輪は主郭の東側斜面を削って造られ、堀切を隔てゝ東出丸となっている。東出丸は細長く、周囲は急峻な地形で2段の帯曲輪が設けている。搦手口は二ノ曲輪の東側から南に急斜面の尾根に造られているが、下方は変形している。
城跡からは眺望が良く、北方には本郷城、原砦、幡鎌城が、西方には中氏館、西山城、南方には高代山砦などが一望できる城で、原野谷川流域一帯を支配した原氏の中心的城郭である。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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