高天神城

たかてんじんじょう
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武田・徳川両氏による激戦の城

  • 名称たかてんじんじょう
  • 俗称・別名鶴翁山、土方城
  • 所在地掛川市上土方峰向
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀切、横堀
  • 築城年16世紀前半
  • 城主・城将小笠原長忠(氏助)
  • 関連武将武田信玄 武田勝頼 徳川家康
  • 文化財指定国指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

遠江の要衝におかれた難攻不落の名城

「高天神を制するものは、遠江を制す」と言われた高天神城は、標高132mの鶴翁山を中心に、放射線状にのびるいくつかの尾根を巧みに活かした山城です。ここを舞台に武田と徳川による激しい争奪戦が繰り広げられましたが、現在は杉や檜のうっそうとした林に覆われています。

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高天神城の築城について、具体的なことは明確ではありませんが、永正10年(1513)までに、今川氏親の重臣福島助春(くしますけはる)が城将として入城していることが確認されています。
今川氏は駿河の守護職でしたが、戦国時代には遠江にも勢力をのばし、各地に支城を築いており、高天神城もその1つとして機能していたと考えられています。
その後、桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、今川氏が衰退すると、三河の徳川家康が東へ勢力を拡大。当時の城主小笠原長忠(最近の研究では、名乗りは「氏助」が正しいとされています)は徳川方に与し、高天神城は徳川方の城となりました。
元亀2年(1571)、武田信玄による遠江侵攻が始まり、高天神城は2万5千ともいわれる軍勢で囲まれましたが、長忠は篭城して死守、信玄は退却を余儀なくされたため、高天神城は難攻不落の城としてその名を世に轟かせました。
天正2年(1574)、武田方が再び来攻、武田勝頼の攻撃に抗しきれず開城、武田方の城となりました。これに対し徳川家康は高天神城奪還のため、高天神城を取り囲むように6つの砦を築き、激しい攻防の末、落城させました。家康は城のすべてを焼き払い、廃城となりました。

成り立ち

『高天神城戦史』を基本とした形成史をみると、『高天神城軍記』事項中、応永23年(1416)に今川了俊築城説、また『武徳編年集成』には、応永23年(1416)今川範政之を築くとあります。その他、斉藤氏の『高天神記考異』には、持氏駿河の今川泰範を頼んだとありますが、泰範は範氏の子です。『高天神御鎮座本記』には「右大将源頼朝公御時、土方次郎義政当山に城郭を築き」とあり、また、「今川了俊二度当山に城郭を築く」とあります。その他、後藤蕭堂の『駿遠史談』の中の高天神城今川了俊否定説、林隆平氏の文明期創築説、見崎閧雄氏の永正6年から7年(1509から10)築城説(応永年代より百年後説)等様々な推論があります。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

高天神城は、県道掛川大須賀線、小笠橋の西側、鶴翁山の山頂削平部を主郭とし、山麓に伸びる放射状の尾根及び谷戸、背後の萩原峠、標高220.6mの櫓部、北西、今竜寺耳付山を含めた広範囲の城郭より構成されています。
城郭の内、主軸は鶴翁山が中心で、定説による城郭は、本丸、天神曲輪、三の丸(与左衛門曲輪)、伊賀曲輪、御前曲輪、井戸曲輪、西の丸、丹波曲輪、堂の尾曲輪、セイロウ曲輪、馬場、到着曲輪等の山頂部に附した曲輪名があります。位置的にみると西の丸は、享保9年(1724)に東嶺より移転した現高天神社の所でなく、北側山袖の館跡で、西の丸と言われる所は高天神社を移設する時、氏子によって削り取られた削平部で元は櫓曲輪跡であり、井戸曲輪及び北の曲輪に向って波状の階段式曲輪があります。この櫓曲輪は南尾根添畑ケ谷口保塁防禦と天主櫓の併用方式を取った所です。丹波曲輪はこの波状階段式曲輪の突形三角の部分及び現在の社務所附近を指します。
この主曲輪の外、赤根ケ谷両わき尾根、源氏谷、林の谷山麓及び尾根部に曲輪群があり、各落し谷の中段に喰違い土塁及び突形三角櫓台を配しています。特に橘ケ谷、象の谷、猪の谷の尾根添は、三角曲輪及び折屏風式曲輪、館等を配する巨大な陣曲輪より形成、むしろ山頂主曲輪より本曲輪的構成となっています。その他、谷本池(林ケ谷池)北側、萩原の谷及び耳付の谷、山麓部に波状階段式曲輪、その山頂に櫓部を設け、萩原峠門口(裏木戸口)に接続しています。この内、耳付山は衛星砦の概形を示し、本城を外敵より防禦しています。
その他堂の谷、平塚、池の段、地境ケ谷等の尾根及び山腹に波状の階段式曲輪を設け、武者走と併設、各突部を櫓台、尾根鞍部に高土居を設けてあります。谷戸は、堂の谷池、渡辺池、蓮池等を設け溜堀等で防禦され、また各主要尾根部は各所に堀切を構築してあります。
なお、本城の主要部分は、昭和50年(1975)10月、国指定史跡となっています。その後、平成17年(2005)に上土方嶺向地域が、平成19年(2007)には下土方地域が追加指定されています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

高天神城跡概要図(『史跡高天神城跡基本整備計画策定報告書』改変)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメント(1)

かつてこの地を歩きました。室町以降の福嶋(くしま)さんのお宅は見かけましたが、鎌倉以前の土方さんのお宅はさすがに見当たりませんでした。信州の望月宿でも、武田、北条、徳川との争乱の果てに、望月さんのお宅をみかけず、哀愁を覚えたのを思い出しました。

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