小笠山砦

おがさやまとりで
  • 小笠山砦
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徳川の築城術の一端が見られる城郭

  • 名称おがさやまとりで
  • 俗称・別名小笠山城
  • 所在地掛川市入山瀬、上内田
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀
  • 築城年永禄11年(1568)
  • 関連武将徳川家康 本多忠勝 榊原康政 石川長門守康通

掛川城と高天神城の攻略を目的に築かれた徳川の陣城

掛川・袋井の両市に跨る小笠山山塊の中心部に位置する小笠山砦。徳川家康が掛川・高天神のニ城を攻略する目的で、永禄11年(1568)に築城されました。

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小笠山城のある小笠山山頂に立つと、南側には高天神城を望むことができ、北方の掛川城は肉眼で見ることはできないものの、眼下に広がる平野部をほぼ一望できます。そんな小笠山に家康が進出したのは、今川方の高天神城主・小笠原長忠と、今川氏真の逃げ込んだ掛川城との連携を断つことを目的としていました。小笠山に陣取った家康は小笠原長忠の懐柔を謀ると、はじめ武田方に与するつもりだった長忠は家康の懐柔策に乗り、直ちに兵をまとめると掛川城を包囲していた徳川の陣に加わったのでした。
その後、再び小笠山砦が東遠江攻防の舞台となったのは、天正7年(1579)のこと。武田方に属していた高天神城を攻略するため、この砦に徳川勢が布陣。高天神城包囲の六砦の一つとして、北の押さえを担いました。
遺構は、破壊を受けた部分はあるものの、全体に良好に保存されています。城域は東西500mにも及ぶもので、付城とはいえその規模は広大です。
小笠山砦は、当時、先進的な築城術を有していた武田方の城郭を接収するなかで、防御性の高い横堀や二重堀切などの新技術を取り込み、改良と規模の拡大を重ねていった徳川の築城術の一旦を垣間見ることができる貴重な城郭といえます。

成り立ち

永禄11年(1568)12月、今川氏真が籠城していた掛川城への攻撃の際、徳川家康は小笠山山頂に本多忠勝、榊原康政を従えて本陣を置き、これを小笠御殿と言いました。また天正7年(1580)10月、家康が高天神城への包囲攻撃に当り、六砦の一つとして此所に小笠山砦を築き、石川長門守康通が持口としたと伝えられています。

現在

小笠山城は、高天神城の北方、標高250mの小笠山、山頂部に位置しています。城郭は4ブロックで構成されていて、本丸は山上中間部に位置し、各曲輪群と堀切、あるいは空堀で分離され、特に西ノ丸と接する堂の尾根郭頂上に櫓台を設けてあります。南ノ丸、山頂も40m²程度の櫓台に削平され、前面に波状の階段式曲輪、更に山麓部に孤形式の浅い空堀を設け、谷部は切堀で構築されています。その他西ノ丸、北ノ丸の山腹面に孤形式浅堀を腹両脇に設け、防禦形態を取っています。
小笠山城は掛川、袋井、菊川に通ずる鷹打、加賀田道、風吹道など、数多くの古道があり、特に小笠山神社に関係した古代からの交通路として知られています。本城の構築は高天神城の独立した支城群の一つとみられます。三井山と同期に構築、その縄張形式は高天神城等同一の設計基準で丁張がなされています。その代表的なものは空堀及び土塁、三郭式郭台です。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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