新野新城

にいのしんじょう
  • 名称にいのしんじょう
  • 俗称・別名舟ヶ谷城、城山
  • 所在地-
  • 様式平山城
  • 関連武将新野左馬助親矩

今川系新野氏にかかわる城

今川系新野氏の出自、および、いつ、だれがこの新城に拠ったか明らかでない。或は新野左馬介義時(1412~)かとも思われるが、それを証明する資料はない。
史料的には永享5年(1433)今川系新野氏として、『満済准后日記』に登場し、嘉吉の乱に新野左馬助(義親か)の名が見える。後に新野左馬助親矩あり、永禄7年(1564)今川氏真の命により親矩は飯尾氏を引馬城に攻めたが、戦いは利なく天間橋に於て討死した。新野左馬助の墓と伝えられる五輪塔が、新野上組の左馬武神社にある。なお、親矩と妻は徳川四天王の一人、井伊直政を幼少期に父直親が氏真に誅殺された後、身をもってかくまい守り通したことで知られる。
新野新城はこの今川系新野氏にかかわる城であることはほぼ間違いない。
城跡は牧之原台地の枝状丘陵が新野の中心平野部に張り出した先端に位置し、舟ケ谷の城山と通称されており、その北方は八幡平の新野古城に接続する。
篠ケ谷地区舟ケ谷の大規模農道を有ケ谷に向って進むと、左側にサイマツ(細松、糧秣、割松)ケ谷あり。切通しの直前、溜池の畔から急な坂を登ると、二の曲輪北西端の虎口に出る。現況はともに破壊、消滅しているが、前方の物見台と思われる曲輪と左側面の曲輪から横矢を虎口に向けて射るように縄張りされていた。一・二の曲輪とも現況は茶園。各20m²の方形、ほぼ同面積である。二の曲輪及び上段の一の曲輪の土塁は地滑りによってか、長年月の間に谷側が広汎に崩れ、現在北方に向って斜面となっている。二の曲輪の東及び西側の土塁の旧状は幅3mと大きく、西側先端は拡大し曲輪状になっていたが、これも採土工事で消滅。その土塁に続いた北側の約35m²の小郭(半島状に突出)や、一の曲輪を取り巻く帯曲輪、幅2~3mの腰曲輪等、舟ケ谷に面した遺構の大半は採土のため消滅してしまった。一の曲輪の南及び西に続く尾根の堀切りを残すのみである。北方尾根伝いに進むと、北の出曲輪があり、なお東方に連なる尾根には4カ所の堀切を残し、東北方の古城(八幡平)に続いている。この出曲輪西側の谷間に直径1.3mの古井戸があるが今は埋もれており、また二の曲輪にもかつて井戸があったという。
当城の北方、有ケ谷地内にはコンボ山(御坊山)、比丘尼垣戸、金山、殿の谷、地蔵段など古い小地名が残っている。
この城の大手は篠ケ谷方面と思われ、舟ケ谷入口に「殿ノ谷」という地名がある。
新・古新野城の特色は多くの堀切を持つことで、二重堀を2つに数えると、古城に12カ所、新城に13カ所、計25カ所ある。これは地形上屋根の数が多いためであろう。
縄張りについて新城は単純な古城に比べ、種々複雑な配置関係を示し、主郭は土塁を用いて構え、腰曲輪で固め、北と西に出曲輪を備えて戦闘様式の変遷に合わせて改築してあり、各時代相が見られる。
現在主郭一帯が開発造成工事によって採土され、遺構の大半が潰滅の状態にあるのは惜しいことである。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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