新野古城

にいのこじょう
  • 名称にいのこじょう
  • 俗称・別名八幡平城
  • 所在地-
  • 様式平山城

源頼朝の入洛に際して後陣の随兵として従った新野氏の古城

新野氏は東遠の豪族、横地、勝間田氏らとともに『吾妻鏡』に初めて見える。すなわち、建久元年(1190)11月、源頼朝の入洛に際して、後陣の随兵として従い、34番に新野太郎の名が起されている。のち建暦3年(1213)和田合戦のとき、朝夷三郎義秀に討ち取られた新野左近将監景直を最後に『吾妻鏡』にその名を見ない。そして『承久記』承久3年(1221)に新野右馬允、正慶2年〔元弘3〕(1333)『蓮華寺過去帳』に新野四郎朝繁あり。以後しばらく諸史料からその名を消す。
新野氏の系譜は『尊卑分脈』に載る源義家6代の子孫、今川国氏の孫俊国が新野弾正少弼を名のったという。また。『遠江国風土記伝』に永徳年間(1381~83)新野左馬助あり。すなわち今川系新野氏と思われ、14世紀後半ころの時代が古い新野太郎系新野氏と、新しい今川系新野氏との境界とみられ、今川氏の一族が古くからの土豪新野氏の名を襲ったとする名跡相続説が妥当な推論とされており、この新野古・新二つの山城は新野氏の居城と伝承されている。
当古城については、城郭史上室町時代初期に「八幡平」を単郭の城として築き、のち一城別郭に修築し、ついで室町中期から後期にかけて主要部を新城(舟ケ谷)に移すとともに、それまで単純であった曲輪の縄張りについても腰曲輪を設けるなど、新城と同型式の改築を行ない、詰城の役割を持たせたものといわれ、新・旧二つの相を持った城である。
牧之原台地から新野地区にのびる丘陵の中間に八幡平の古城跡、先端部に別掲の新城跡がある。当城は有ケ谷(東)と篠ケ谷(西)に挟まれる標高90mの屋根上平坦部を利用し、北東方は塩買坂に通じ、西方9kmに高天神城を望見できる位置にある。
城跡はほぼ南北に連なる二郭から成り、主部は南の一の曲輪(八幡平といわれる)で、山頂部を削平した東西40m、南北約100mの広さをもつ。郭内に土塁跡は見られない。西側はすべて崖で、2カ所入り込む尾根には堀切を設け、北方二条の堀切の中間にある帯曲輪では古器片が多く発見された。東側約5m下の中断は帯曲輪で取り巻き、土居を巡らし、山麓からの敵を防ぎ、また虎口もみられる。北の二の曲輪は自然の地形をそのまま利用し、現在曲輪の跡ははっきりしない。北方尾根伝いに侵入する敵に備えるため、幅約6mの二重堀がある。曲輪の東南中腹には帯曲輪、土居がみられ、空堀と通路を兼ねたような部分もある。一と二の曲輪は約60mの尾根で連なり、3カ所の堀で切断されている。
この城の西側(有ケ谷)の聖ケ谷山頂あたりが、古城と新城の境界と想定され、また大上、大下という小地名があって、八幡平の大手かとも考えられ、東側(篠ケ谷)山麓に想慈院という古刹がある。
当古城は横地城や勝間田城と共通類似点が多く見られるとともに、占地上の理由か原状が良く保存されている点を特筆しておきたい。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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